東北文化研究 第一巻第二號 昭和三年十月一日発行 から
青字は私の意見です。 そのまま現代の漢字にしたものもあるし、省いて解りやすくしたものもあります。
奥州に蝦夷が居たことは歴史の上で顕著な事実だ。
したがって蝦夷がアイヌと同一系統の人種である以上、奥州にアイヌ語の地名があっても不思議ではない。
石器時代の遺物を見ると、アイヌと同一系統のものが遺したと認められる品が内地各所から発見されている。
随って日本全国いたるところ、アイヌ語の地名があっても差し支えない筈だ。
そこでアイヌ語辞典を引いて、各地の地名を説明することが流行る。
その一例として、「北海道地名解」という本の附録から少々下記に紹介する。
堺。(サツカイ)砂が乾ける所の義。
大阪府の堺市は海岸に出来た市街で、砂が乾いて今の土地が出来たに相違ない。
鳥取県の堺港も、砂嘴(さし)の突端によって同じ条件を具備している。
併し堺は摂津と和泉との堺に出来た市街で、堺港は伯蓍と出雲との間の港だから始末が悪い。
始末が悪い・・の意味は、位置関係がわからないのでなんとも理解できていません。
上野、下野。(ケヌ)、平野の義。
ケは平野の義、ヌも野の義なり。
鬼怒川。(キツヌプ)、芽の原の義。
或る程、上野下野の両国も毛野と云ったのだから、それは先ず平野の義に良いとしてみる。
鬼怒川はその毛野の国から出た川で、それで毛野川と云ったのだったが如何にと言いたくなる。
アイヌ語のキツヌプから、時代が飛んだように思います。
毛野川と鬼怒川の発音は似てはいますが、キツヌプとの関係が??
羽前、羽後。(ウ)、広きところの義。
ウはウシケと同じく、「広く果てしない土地」を意味する。
羽前には広い平野がある。これは明治の初めに、出羽の国を前後の二国に分けて、その「羽」を音読みしたのだった。
庄内。(ソウ、ナイ)、滝の川の義。
庄内には急流最上川がある。 ここはもと大泉荘の荘内であったのだから困る。
しかし、大泉荘は、石器時代や蝦夷の時代のずっと後なので、気にしなくてもいいのでは?
陸奥。(ムト)、刀を帯ぶる義。
奥州のエビスは武に長じ、エビス即ちエムシはアイヌ語で刀剣を意味する位だ。
陸奥はもと道奥即ちミチノオクノ国でそれがミチノオクノクニになり、略されてミチノクになり、それが地方音によってムツの国になった。
確かに、その辺の爺さんに、ミチノクって言って下さいと言えば、ムツノクと発音するかも! 納得!
平泉文化に見るアイヌ
藤原三代のミイラが金色堂の須弥壇(しゅみだん)に安置されていることは、よく知られています。
また、平泉文化は12世紀から今日まで八百年もの長い間、三人のミイラが保存されているのも世界の謎なのだ。
昭和25年調査の時、この三代は倭人であると発表されているが、異論も多いが、この時代には、混血も進んでいるので、区別が付け難いのではと小生も考えます。
このミイラは、自然説もあるが、どう見ても人工的に思えます。
それは、皮膚が緊張してしなびていないこと、脳漿や内臓が残っていないこと、後頭部と肛門に人工的な穴があること、三体とも同じ様なミイラであることが上げられます。
そして金色堂そのものが、彼らの遺体を納める葬堂として造られている。
藤原清衡は、「紺紙金銀字交書一切経」5300巻を宗の五台山から砂金十万五千両を投じ輸入している。
金色堂須弥壇の勾欄の紫檀財や多くの螺鈿細工に用いられた夜光貝もすべて輸入品だ。
輸入ルートを考えれば平泉と宗とは、日本海航路で直接結びついていたのではないかと考えられます。
当時の平泉の豊富な財力はそれを可能にしていたのでしょう。
まぁ、この財産を求めて、国府軍が戦争を起こしたわけですがね。
前九年の役や後三年の役については、いずれまた・・・
調査や復元の時この螺鈿を作るのに、夜光貝を探すのに大変だったと読んだことがあります。
藤原氏がアイヌ系である理由
それは・・・
このミイラを作る風習は樺太アイヌににていること。
金色堂内の六体の地蔵は、アイヌが六を聖なる数とし、ユーカラにも六人の神々出てくること。
清衡の着ていた小袖はアイヌの袖と同じであること。
鹿の角で作った刀はアイヌの刀であること。
棺の中のたくさんの木の実は狩猟採集生活的であること。
また・・・
東北地方の人は、頭の形が長頭型が多い
指紋に弓状紋が多い
律令制の頃からは、南から農耕文化を持った人達が来て磐井から紫波辺りにかけ、先住民と混血していったと云われています。
先住民とは、アイヌ・エンチューウタリ(樺太アイヌ)・オロッコ(ウイルタ)・ギリヤーク(ニヒピ)・キリン・ヤクート
※オロッコ以下の四族はアムール河流域のツングース族であったともいわれる。
これについては、津軽地方に伝承されている、太古東北に阿曽部族(あそべぞく)、津保化族(つぼけぞく)が住んでいて、そこへ安比族(あぴぞく)やってきて混血して荒吐族が出来、それが安倍氏になった、という話とにている。
この荒吐神社については以前記してますので、こちらをご覧下さい。
アラハバキ神社
厳密に言えば、アイヌと蝦夷は区別して考えるべきであると思いますが、文化の流れの中で密接な関係にあると思いますので、ここではアイヌと表現しています。
蝦夷に関する関連記事 毘沙門堂
ここの鳥居は両部鳥居でそれを立派に造った感じです。
岩手の地名&山名
岩手の地図を見ると、カタカナの山が意外と多い。
なんてったって、奥羽山脈に北上山地と山も多いが面積も四国4県が入るという。
ですから山も全国の名だたる山の10パーセントはこの岩手なのです。
それでは、「オイネガ森(大槌・釜石)」、「サンポトジ頭(宮古・新里)」、「ツクシ森(葛巻)」、「マネドコ山(山形)」、「メンヅクメ山(岩泉)」、
・・・・
「マネドコ山」は、アイヌ語の「オマン・エトコ」=奥に入る・水源
「サンポトジ頭」は地形的に、「三方に明け放した」とか、少女のおかっぱ髪型の
方言「ザンボ」、日蓮宗の本尊「サーボー様」等々様々な説がある。
地名では、軽米・種市にまたがる「ノソウケ峠」は「特別の悪魔払いの儀式を執り行なった所」という意味がある。
沼宮内・和井内などのように「ナイ(沢・川)」が語源となっているものは、後に漢字で当て字にしたものでしょう。
カタカナの山名は、このようにアイヌ語や方言であったもので、何らかの理由で漢字にならなかったり、表記するのが難しかったのでしょう。
「ベツ・ベチ・べ」は「ナイ」の川より比較的大きい川の意味がある。
浦子内・樫内・左比内・馬渕川(まべち)・宇別・遠別・荷軽部・乙部(おっとべ)・宇部・彦部・達曽部など
「メナ」=上流の細い枝川の意味。
目名・目名市など
長くなりました。 ここまで読んだあなたは偉い! 辛抱強い!
ここに感謝申しあげます。 明日、僕の誕生日ですww
青字は私の意見です。 そのまま現代の漢字にしたものもあるし、省いて解りやすくしたものもあります。
奥州に蝦夷が居たことは歴史の上で顕著な事実だ。
したがって蝦夷がアイヌと同一系統の人種である以上、奥州にアイヌ語の地名があっても不思議ではない。
石器時代の遺物を見ると、アイヌと同一系統のものが遺したと認められる品が内地各所から発見されている。
随って日本全国いたるところ、アイヌ語の地名があっても差し支えない筈だ。
そこでアイヌ語辞典を引いて、各地の地名を説明することが流行る。
その一例として、「北海道地名解」という本の附録から少々下記に紹介する。
堺。(サツカイ)砂が乾ける所の義。
大阪府の堺市は海岸に出来た市街で、砂が乾いて今の土地が出来たに相違ない。
鳥取県の堺港も、砂嘴(さし)の突端によって同じ条件を具備している。
併し堺は摂津と和泉との堺に出来た市街で、堺港は伯蓍と出雲との間の港だから始末が悪い。
始末が悪い・・の意味は、位置関係がわからないのでなんとも理解できていません。
上野、下野。(ケヌ)、平野の義。
ケは平野の義、ヌも野の義なり。
鬼怒川。(キツヌプ)、芽の原の義。
或る程、上野下野の両国も毛野と云ったのだから、それは先ず平野の義に良いとしてみる。
鬼怒川はその毛野の国から出た川で、それで毛野川と云ったのだったが如何にと言いたくなる。
アイヌ語のキツヌプから、時代が飛んだように思います。
毛野川と鬼怒川の発音は似てはいますが、キツヌプとの関係が??
羽前、羽後。(ウ)、広きところの義。
ウはウシケと同じく、「広く果てしない土地」を意味する。
羽前には広い平野がある。これは明治の初めに、出羽の国を前後の二国に分けて、その「羽」を音読みしたのだった。
庄内。(ソウ、ナイ)、滝の川の義。
庄内には急流最上川がある。 ここはもと大泉荘の荘内であったのだから困る。
しかし、大泉荘は、石器時代や蝦夷の時代のずっと後なので、気にしなくてもいいのでは?
陸奥。(ムト)、刀を帯ぶる義。
奥州のエビスは武に長じ、エビス即ちエムシはアイヌ語で刀剣を意味する位だ。
陸奥はもと道奥即ちミチノオクノ国でそれがミチノオクノクニになり、略されてミチノクになり、それが地方音によってムツの国になった。
確かに、その辺の爺さんに、ミチノクって言って下さいと言えば、ムツノクと発音するかも! 納得!
平泉文化に見るアイヌ
藤原三代のミイラが金色堂の須弥壇(しゅみだん)に安置されていることは、よく知られています。
また、平泉文化は12世紀から今日まで八百年もの長い間、三人のミイラが保存されているのも世界の謎なのだ。
昭和25年調査の時、この三代は倭人であると発表されているが、異論も多いが、この時代には、混血も進んでいるので、区別が付け難いのではと小生も考えます。
このミイラは、自然説もあるが、どう見ても人工的に思えます。
それは、皮膚が緊張してしなびていないこと、脳漿や内臓が残っていないこと、後頭部と肛門に人工的な穴があること、三体とも同じ様なミイラであることが上げられます。
そして金色堂そのものが、彼らの遺体を納める葬堂として造られている。
藤原清衡は、「紺紙金銀字交書一切経」5300巻を宗の五台山から砂金十万五千両を投じ輸入している。
金色堂須弥壇の勾欄の紫檀財や多くの螺鈿細工に用いられた夜光貝もすべて輸入品だ。
輸入ルートを考えれば平泉と宗とは、日本海航路で直接結びついていたのではないかと考えられます。
当時の平泉の豊富な財力はそれを可能にしていたのでしょう。
まぁ、この財産を求めて、国府軍が戦争を起こしたわけですがね。
前九年の役や後三年の役については、いずれまた・・・
調査や復元の時この螺鈿を作るのに、夜光貝を探すのに大変だったと読んだことがあります。
藤原氏がアイヌ系である理由
それは・・・
このミイラを作る風習は樺太アイヌににていること。
金色堂内の六体の地蔵は、アイヌが六を聖なる数とし、ユーカラにも六人の神々出てくること。
清衡の着ていた小袖はアイヌの袖と同じであること。
鹿の角で作った刀はアイヌの刀であること。
棺の中のたくさんの木の実は狩猟採集生活的であること。
また・・・
東北地方の人は、頭の形が長頭型が多い
指紋に弓状紋が多い
律令制の頃からは、南から農耕文化を持った人達が来て磐井から紫波辺りにかけ、先住民と混血していったと云われています。
先住民とは、アイヌ・エンチューウタリ(樺太アイヌ)・オロッコ(ウイルタ)・ギリヤーク(ニヒピ)・キリン・ヤクート
※オロッコ以下の四族はアムール河流域のツングース族であったともいわれる。
これについては、津軽地方に伝承されている、太古東北に阿曽部族(あそべぞく)、津保化族(つぼけぞく)が住んでいて、そこへ安比族(あぴぞく)やってきて混血して荒吐族が出来、それが安倍氏になった、という話とにている。
この荒吐神社については以前記してますので、こちらをご覧下さい。
アラハバキ神社
厳密に言えば、アイヌと蝦夷は区別して考えるべきであると思いますが、文化の流れの中で密接な関係にあると思いますので、ここではアイヌと表現しています。
蝦夷に関する関連記事 毘沙門堂
ここの鳥居は両部鳥居でそれを立派に造った感じです。
岩手の地名&山名
岩手の地図を見ると、カタカナの山が意外と多い。
なんてったって、奥羽山脈に北上山地と山も多いが面積も四国4県が入るという。
ですから山も全国の名だたる山の10パーセントはこの岩手なのです。
それでは、「オイネガ森(大槌・釜石)」、「サンポトジ頭(宮古・新里)」、「ツクシ森(葛巻)」、「マネドコ山(山形)」、「メンヅクメ山(岩泉)」、
・・・・
「マネドコ山」は、アイヌ語の「オマン・エトコ」=奥に入る・水源
「サンポトジ頭」は地形的に、「三方に明け放した」とか、少女のおかっぱ髪型の
方言「ザンボ」、日蓮宗の本尊「サーボー様」等々様々な説がある。
地名では、軽米・種市にまたがる「ノソウケ峠」は「特別の悪魔払いの儀式を執り行なった所」という意味がある。
沼宮内・和井内などのように「ナイ(沢・川)」が語源となっているものは、後に漢字で当て字にしたものでしょう。
カタカナの山名は、このようにアイヌ語や方言であったもので、何らかの理由で漢字にならなかったり、表記するのが難しかったのでしょう。
「ベツ・ベチ・べ」は「ナイ」の川より比較的大きい川の意味がある。
浦子内・樫内・左比内・馬渕川(まべち)・宇別・遠別・荷軽部・乙部(おっとべ)・宇部・彦部・達曽部など
「メナ」=上流の細い枝川の意味。
目名・目名市など
長くなりました。 ここまで読んだあなたは偉い! 辛抱強い!
ここに感謝申しあげます。 明日、僕の誕生日ですww
…って、ぐずらもけっこう隠し持っているようですが
なんだか二人とも似てますね!さすが同級生
ひーさん、お誕生日なんですね。おめでとうございます
明日はパーティですか? いいなぁ~
尊敬するよ
多分私は無理だなぁ~
平泉、この地名を聞くと黄金が思い浮かびますね。
今、福岡で平泉展が開催されていますので、先日、見てきました。
ミイラを作るという習慣は日本にはないので、やはりアイヌ系なのかなあとも思ってあいまいます。
まだ予約ですが!
二人で同じ本を買ってしまったようです。
半分ずつ出し合えばよかった。
残念ながら明日は、泊まりです。トホホ
他に参考にした本もありますけど。
すみません、読ませてしまって。
うちの娘と同じ誕生日とは (^^♪
そして~
大作~ですね(^^)v
まさかここに
鳥取県の堺港がでてくるとは
あの~
堺ではなく境なんですよ (^^ゞ
ともあれ~
藤原氏
アテルイとかそういう言葉を考えると
充分 アイヌってことは
想像できますね (^_-)-☆
私の街の博物館でもやっていたのですが、仏像の方が多いのかなと思って、興味があったのですが、行かないでしまいました。
たぶん、同じものが回っているのかも?
平泉の話は長いので、小出しに書きたいと思います。
炎立つも見ないでしまったのです。
島根の境は直して置きますね。
毘沙門堂の記事に悪路王の顔の面があるのですが、実は、アテルイです。
感服仕りましたっ
明日でいよいよ30才でしたか?
おめでとう存じます♪
ところで、エンチューウタリ・・・
エゾ、エミシorエビスの語源がこのエンチュだって云う説があるな
①エンチュ→エンジュ→エンゾ→エゾ
②エンチュ→エミチュ→エミス→エミシ
③エンチュ→エムチュ→エムス→エビス
んでも、アイヌとエゾの関係は時代的な前後関係や地域的な広がりの曖昧さもあって
なかなかむずかしい問題だな
それにアイヌが民族的に確立した時期は、
エゾ系諸部族の居住地が北海道以北に収束した室町時代ごろとも云われてるし・・・
いずれにしても、東日本の縄文系民族のうち弥生文化の受容が遅れた集団がエミシorエゾと呼ばれ
さらにエゾ諸部族の割拠する奥六郡の北方、朝廷権威の埒外の北海道では、
南下してきたオホーツク文化集団との混合で近世に継づくアイヌ民族が
ゆっくりと時間をかけて形成された・・・
つまり、8世紀末のアテルイや11世紀の前九後三年の役の頃にはまだ、
アイヌ民族と総称されるような民俗集団はできあがっておらず
いってみれば、後世その一部がアイヌ民族を形成する母集団としてのエゾのコトバが地名に残っている・・・
と考えれば辻褄が合うんではねーかねぇ
もっとも、西日本の地名や出羽(いでは)、毛野(けぬ)
なんかの語源をアイヌ語(エゾことば)に探るのは
ちょっとコジツケっぽいと思うなぁ~