歴史が苦手な方は、写真でも眺めて下さ~い。
一応、中学生でもわかるように書きたいと思います。
最近はゲームのキャラクターが人気で全国から女性のファンが見学に来ているようです。
確かに居ました! 普通、墓地には年配の歴史好きな方しか居ないのに、若い女性が観光タクシーで来てましたよ。 驚きでしたね!
片倉小十郎景綱「かたくらかげつな」 弘治3年(1557)~元和1年(1615)
景綱は米沢八幡神社の宮司の次男で、最初は、伊達輝宗(てるむね/政宗の父)の小姓と言う低い身分で伊達家に仕えていました。
(小姓【こしょう】とは=武家の職名で主君の側近、雑用をつかさどる武士)
19歳の時、輝宗に見出され9歳になる梵天丸(政宗の幼名:ぼんてんまる)の守役:近待(養育係)になりました。
また、姉の片倉喜多(きた)は、梵天丸の乳母(うば)を務めていましたのでその影響もあったのでしょう。
喜多についての記録は少なく、いつから梵天丸に仕えていたのかはわからないようです。
28歳も年上といいますから、母の義姫よりも年上の乳母だったのですね。
本によっては、片倉喜多子と記しているものがあり、戸惑っております。
喜多子についてはいづれまた・・・
政宗に取り立てられ重心となった景綱は「鬼の小十郎」の異名を取るほどに勇猛で、政宗の戦闘譜には常に彼の名前が刻まれいました。
しかも知恵者であり、戦場には「論語」を携えて読んでいたという教養人でもあったようです。
政宗の頭脳として大いに能力を発揮した人物です。
多くのエピソードもあり、後程紹介したいと思います。
黒釣鐘の旗
【黒釣鐘の旗】
片倉家の軍旗です。
先程説明した、景綱の姉の喜多がデザインしたと言われています。
この旗は、病気で大阪に行けなかった景綱が息子の重綱の活躍を祈って与えた旗です。
大阪夏の陣に出兵した伊達政宗の軍勢です。
先頭に片倉家の黒釣鐘の旗が見えますね。
つづく
一応、中学生でもわかるように書きたいと思います。
最近はゲームのキャラクターが人気で全国から女性のファンが見学に来ているようです。
確かに居ました! 普通、墓地には年配の歴史好きな方しか居ないのに、若い女性が観光タクシーで来てましたよ。 驚きでしたね!
片倉小十郎景綱「かたくらかげつな」 弘治3年(1557)~元和1年(1615)
景綱は米沢八幡神社の宮司の次男で、最初は、伊達輝宗(てるむね/政宗の父)の小姓と言う低い身分で伊達家に仕えていました。
(小姓【こしょう】とは=武家の職名で主君の側近、雑用をつかさどる武士)
19歳の時、輝宗に見出され9歳になる梵天丸(政宗の幼名:ぼんてんまる)の守役:近待(養育係)になりました。
また、姉の片倉喜多(きた)は、梵天丸の乳母(うば)を務めていましたのでその影響もあったのでしょう。
喜多についての記録は少なく、いつから梵天丸に仕えていたのかはわからないようです。
28歳も年上といいますから、母の義姫よりも年上の乳母だったのですね。
本によっては、片倉喜多子と記しているものがあり、戸惑っております。
喜多子についてはいづれまた・・・
政宗に取り立てられ重心となった景綱は「鬼の小十郎」の異名を取るほどに勇猛で、政宗の戦闘譜には常に彼の名前が刻まれいました。
しかも知恵者であり、戦場には「論語」を携えて読んでいたという教養人でもあったようです。
政宗の頭脳として大いに能力を発揮した人物です。
多くのエピソードもあり、後程紹介したいと思います。
黒釣鐘の旗
【黒釣鐘の旗】
片倉家の軍旗です。
先程説明した、景綱の姉の喜多がデザインしたと言われています。
この旗は、病気で大阪に行けなかった景綱が息子の重綱の活躍を祈って与えた旗です。
大阪夏の陣に出兵した伊達政宗の軍勢です。
先頭に片倉家の黒釣鐘の旗が見えますね。
つづく
「黒釣鐘」の旗の下。先陣を常に切ってでた「小十郎」でした。
はてさて、じっくり勉強させていただきます。
(この手の話題ですと「クロンシュタット様」「丹治様」お得意分野ですので、コメントの展開もいかに)
まずは酔漢。先陣を切りました!(いつも最後なのに・・)
出来るだけ、簡単に終わらせようと考えています。
しかし…難しい!
3Dアクションゲーム『戦国BASARA』の人気キャラになったおかげで、
近ごろ白石への若い女性観光客急増だそうです。
ちなみに、このゲームのキャラ人気投票堂々二連続首位は、
主君政宗公であらせられますぞぉ~♪
確か家にも似たようなゲームがあったかも?
ホントに女性人が多かったです。
論語を戦場に~
道を極めるとは~たいへんなことです
炎立つ も、あの頃忙しくて殆ど出てましたから。
今更、レンタルで見ようかなと思ってます。
CGの武将はカッコイイですからね。