海には霧が立ち込めていました。
ここは田老町です。今は宮古市と合併したようですが・・・
津波防災の町としても有名で、津波対策の研修で他県の港町から研修のお客様が勉強に来ます。
何度かそんなお客様を連れて来たことがありました。
記録に残る大きな津波は・・・・
明治三陸津波:明治29年(1897年)6月15日
最大波高は、14.6mを記録している。
この時、釜石で8.2m、船越で10.5m、重茂で18.9m、吉浜で22.4m
綾里で21.0mと大きく10mを越えている。
昭和三陸津波:昭和8年(1933年)3月3日
最大波高は10mを記録している。
この時、気仙郡三陸町(現・大船渡市)綾里で28.7mを記録しています。
壊滅的な津波災害を二度も受けましたが、住民達の力で町を復興しています。
田老町では高さ10メートル、総延長2443メートルの巨大な防潮堤を築きました。
そこで有名な、1960年5月23日に来襲したチリ地震津波の被害を最小限に食い止め
これにより、田老町の巨大防潮堤は全世界に知れ渡ったということです。
これが、10メートルの防波堤です。
門は4.5mですから、中二階の観光バスがくぐれます。
実際に私がバスを運転してくぐったのですから、間違いありません。
研修のお客様を乗せて行ったので、この看板があるところも知っていたわけです。
崖に二つの表示がありますがこれです.
町の路地には避難場所の看板が多数あります。
津波をなめたらあかんぜよ!
PS:2012年8月にここを訪れました。
東日本大震災後はこのようになっていました。震災から1年5ヵ月後です。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/5c9b7c39919be7249499068bf186839e
東日本の関連記事は、左サイドーにリンクしてあります。私が取材したものだけですが。
ここは田老町です。今は宮古市と合併したようですが・・・
津波防災の町としても有名で、津波対策の研修で他県の港町から研修のお客様が勉強に来ます。
何度かそんなお客様を連れて来たことがありました。
記録に残る大きな津波は・・・・
明治三陸津波:明治29年(1897年)6月15日
最大波高は、14.6mを記録している。
この時、釜石で8.2m、船越で10.5m、重茂で18.9m、吉浜で22.4m
綾里で21.0mと大きく10mを越えている。
昭和三陸津波:昭和8年(1933年)3月3日
最大波高は10mを記録している。
この時、気仙郡三陸町(現・大船渡市)綾里で28.7mを記録しています。
壊滅的な津波災害を二度も受けましたが、住民達の力で町を復興しています。
田老町では高さ10メートル、総延長2443メートルの巨大な防潮堤を築きました。
そこで有名な、1960年5月23日に来襲したチリ地震津波の被害を最小限に食い止め
これにより、田老町の巨大防潮堤は全世界に知れ渡ったということです。
これが、10メートルの防波堤です。
門は4.5mですから、中二階の観光バスがくぐれます。
実際に私がバスを運転してくぐったのですから、間違いありません。
研修のお客様を乗せて行ったので、この看板があるところも知っていたわけです。
崖に二つの表示がありますがこれです.
町の路地には避難場所の看板が多数あります。
津波をなめたらあかんぜよ!
PS:2012年8月にここを訪れました。
東日本大震災後はこのようになっていました。震災から1年5ヵ月後です。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/5c9b7c39919be7249499068bf186839e
東日本の関連記事は、左サイドーにリンクしてあります。私が取材したものだけですが。
そっか TSUNAMIの町だったかぁ
殆ど完璧な対策なんでせうね
漁船が街中に乗り上げている写真でしたでしょうか。
それでも湾内の地形が緩やかな松島湾塩竃湾では、まだまだ津波の被害は抑えられてきました。
あの厳しいリアス式の三陸海岸を想う時、逃げても逃げても追いかけてくる津波の威力にうなされそうです。
著者が執筆のための調査をしたのはチリ地震津波の後。
当時は明治の三陸津波、昭和の三陸津波、チリ地震津波を体験した方が
まだ存命していたそうです。
東北の沿岸に生きる者にとって、津波は忘れることができません。
奥尻島沖の津波も秋田沖の津波もみやぎけんの太平洋岸には被害が出ませんでしたが、
やはり他人事ではありませんね。
母方の親戚が宮古にあった時、田老にも行きました。
万里の長城というか要塞の胸壁というか、
あの高く長大な防潮堤を見た時のショックは今でも覚えています。
丘の上に積んだ自分の稲藁に火をつけて
村の人たちに津波を知らせた村長さんの話も
聞いたことがあります。
最近、さいわいにして太平洋岸に目立った津波の被害はありません。
しかし防潮堤の外に家を建てる人がぼちぼち出始めたと聞きます。
法的に規制するわけにもゆかず、行政もアタマを悩ませているとか。
また二月末の平成チリ地震津波の際、
非難が徹底しなかったり
津波が到達した後で湊を車が走っていたということもあったそうです。
津波の記憶が風化するのは恐ろしいことです。
くぐるんですか?
しかもぎりぎりなんでしょう?
びビリますです (^_-)~☆
電信柱には 津波予想高さが赤いテープで示されて居ます。
備えあればの気持ちを忘れ無いように心しておきます。
いずれにしても、天災から免れるには限度がありますね。
もう二度と来ないとは、絶対言えない訳で、もしきたら・・・
「後悔先に立たず」家族の命も財産も顧みない行動は、後で後悔するだけです。
仰る通り、風化させてはいけない事実ですね。
津波が10センチとか言ってるうちはいいのですが・・・
日本では、身体に感じない地震が一日300回以上起きているそうです。
先日TVでやってました。
海の青さと奇岩の数々は、過酷な真夏のツーリングを楽しくさせてくれました。
当時の田老町はうろうろしましたが、堤防の高さとやはり「三陸津波○○メートル」という標識には驚きました。
それと、山火事なのに漁船が燃える被害があることも、陸中ならではなのでしょうね。
二度ほど行きましたが、二度目は田老から早坂高原を経由して岩泉龍泉洞まで。長い登りはきつかったのを覚えております。