南染師町
伊達政宗が仙台に移った時に従ってついてきた染物師の一行は、当初現在の霊屋下付近に住み着きました。
その後、御霊屋造営のため寛永三年(1636)七郷掘の上流に移ったのです。
伊達家と一緒についてきた店が6軒、よそから移って来たのが11軒で、これらが掘りを挟んで職人町を作っていたのです。
これが南染師町の始まりです。
町屋の間口は六間と定められていましたが、ここは半間広く与えられ、大町の染め物は当町が独占して扱うことが許されました。
この近くには、足軽の町が多く、その脚絆等を扱っていたそうです。
従って木綿が主体でした。
絹物を扱って上流階級との付き合いが多かった、上染師町と比べ、明治以降にも比較的仕事をとりやすかったので潰れることはありませんでした。
「愛染明王」
これは商売繁盛と町民の幸福を願って、京都三条の愛染町から移したものと言われています。
お堂は度々の火災で失われ、現在の建物は文久年間に修理したもののようです。
掘り沿いに一軒の染物屋を発見しました。
看板を見ると越後屋染物店の文字が・・・・なんかホッとしました。
染物の町であった名残がいつまでもあって欲しいですね。
上染師町
仙台の人でも上染師町って?どこにあるんだ? と思う人が多いと思います。
当然でしょう、町名としては残っていませんからね。
北目町と五橋通りに南接する通りで、その延長が田町通り、つまり五橋中学校の西側で東北大学や東北学院大学の手前のです。
この石碑は五橋中学校から入ってくる通りにあります。
藩政時代はには、染物屋が軒を並べていたが昭和40年頃には一軒も無くなっていました。
ここに染め師たちが住んだのは仙台開府当時からと伝えられ、もっとも古い城下絵図に染師町として表記されており、主に藩や家臣たちの絹物を扱っていた。
町名に「上」の字が付け加えられたのは、明治時代になってからで、南染め師町と区別するためのようです。
明治維新にはまだ、十軒程の染物屋があったといいいます。
しかし、衰退を続け戦前には、ほとんど姿を消しました。
かつては「逆川(さかさがわ)」という川が流れていましたが今ではもうありません。
七軒丁、五ツ橋通、連坊小路を通して「染め師町通」と呼ばれた事もある。
そうであることを願います。
一軒の工場が端の方にあります。
こちらは現役で頑張っています。
しかし、この川は使いませんがね。