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チョット退屈ですが・・・・活字のオンパレードです。
上杉○代目は、上杉謙信から数えてます。
米沢藩、初代景勝から数えると一つ減ります。
難しい言葉は出来るだけ使用しないで書きたいと思います。
先にも述べましたが
上杉景勝・会津百二十万石から、関ヶ原の戦いで、石田三成の西軍につき、
徳川家康の東軍が勝利したため、米沢に三十万石に減らされ、いわゆる転勤
(左遷)させられたわけですね。
しかし後継ぎが無く、養子を迎えました。
【世継ぎが居ないと、お家断絶もありえたのですね。
だから側室を儲け、当時の殿様は世継ぎを沢山作ったのですね。】
そこで、養子の代償に三十万石から十五万石に減らされました。
しかし、収入が減ったのにリストラもしないし、生活も同じようにしていた為
財政はますます悪化したのですね。
ここでチョット戻りますが、
養子に来たのは忠臣蔵で有名な高家筆頭吉良義央の
長子を養子に迎えました。(その斡旋をしたのが、会津藩主保科正之です)
吉良上野介は、吉良義央(よしなか又はよしひさ)の通称です。
上杉家と吉良家の関係ですが、三代上杉定勝の娘「参姫」が吉良上野介義央に嫁ぎ
その息子、「吉良綱憲」が今度は4代上杉綱勝の養子に入り5代「上杉綱憲」と
なるのです。
更にその子「上杉義周」が今度は吉良家上野介の養子となり吉良家の家督を相続
しています。
上杉家と吉良家は二重のも三重にも深いつながりで結ばれていたのです。
その中で起きたのが皆さんご承知の赤穂浪士の吉良邸討ち入りです。
当然米沢の人は、年末のあの番組は見なかったようです。
それでは、前に戻りましょう。
財政困難となった米沢藩を後に救ったのが、上杉鷹山公です。
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「上杉家十代」いきづまった米沢藩を、卓越した発想と大胆な政策によって
再建した江戸時代隋一の名君として知られています。
宝暦元年(1751年)7月20日高鍋藩主、秋月種美(3万石)の二男として誕生
母は秋月藩黒田長貞の娘 春姫。(春姫の母は上杉家五代、綱憲の娘)
鷹山は、重定の正室が生んだ女子、幸姫(ゆきひめ)と将来結婚することを前提
に、宝暦10年、正式に上杉家の養子となり上杉治憲となる。
ところが、この幸姫との間に、夫婦としての関係を生涯持ちえなかったのです。
幸姫は、心身ともに発育が遅れており、10歳にも満たぬ幼女同然だったからです。
しかし鷹山はこの幸姫を、いつくしみ続けるのです。
鷹山が、幸姫を相手に、ひな飾りや玩具遊びをする姿を見て、お付きの女中たちは
涙を流したといわれています。
鷹山は、自らが率先して倹約することで、大倹を断行したのです。
藩主の生活費のすべてである江戸における年間仕切料は、これまで千五百両だった
のを、これを二百九両余まで圧縮しました。
日常の食事は一汁一菜、衣服は綿衣とし、五十人もいた奥女中は九人に減らしました。
自ら鍬を持ち、人々に食べられる草花や木々を教え、米の採れない大飢饉の時は、
それを食べてしのげたとか聞きます。
口減らしの為、年寄りを捨てていたとき、鷹山は今で言う年金制度のようなものを
作り、70歳以上は村で面倒を見て、90歳以上は死ぬまで食べさせたといいます。
かなり、長くなってきたので、この辺にしておきます。
今の政治家も見習いなさい!
PS:鷹山公は江戸には側室を持たず、米沢に一人だけ居ました。生涯深い信頼関係だった聞きます。
こんな話があります。 アメリカ合衆国大統領J.F.ケネディに
日本の記者団が質問をしました。
『日本の政治家で最も尊敬できる政治家は誰ですか?』と尋ねました。
すると大統領は、上杉鷹山と答えたのです。
しかし、日本の記者は誰も彼の名前を知らなかったのです。
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「伝国之辞」は、鷹山の政治理念
一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には無之候。
一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候。
「五什組合」
1.五人組は常にむつまじく交りて苦楽をともにすること、家族の如くなるべし。
1.十人組は時々親しく出入りして家事を聞くこと、親類の如くなるべし。
1.一村は互いに助け合い、互いに救い合いたのもしきこと、朋友の如くなるべし。
1.組合村は患難にあって助け、隣村よしみ甲斐あるべし。
「郷村教導出役」の任務
1.天道を敬うことを教える事
1.父母への孝行を教える事
1.家内睦まじく親類親しむことを教える事
1.頼りなき者をいたわって渡世させる事
1.民の害を除き民の潤益をとり行う事
1.上に立ち百姓を取扱う諸役人の邪正に注意する事
1.往来の病人をいたわる事
次は、一生妻だけを愛した、武将を紹介します。
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上杉○代目は、上杉謙信から数えてます。
米沢藩、初代景勝から数えると一つ減ります。
難しい言葉は出来るだけ使用しないで書きたいと思います。
先にも述べましたが
上杉景勝・会津百二十万石から、関ヶ原の戦いで、石田三成の西軍につき、
徳川家康の東軍が勝利したため、米沢に三十万石に減らされ、いわゆる転勤
(左遷)させられたわけですね。
しかし後継ぎが無く、養子を迎えました。
【世継ぎが居ないと、お家断絶もありえたのですね。
だから側室を儲け、当時の殿様は世継ぎを沢山作ったのですね。】
そこで、養子の代償に三十万石から十五万石に減らされました。
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しかし、収入が減ったのにリストラもしないし、生活も同じようにしていた為
財政はますます悪化したのですね。
ここでチョット戻りますが、
養子に来たのは忠臣蔵で有名な高家筆頭吉良義央の
長子を養子に迎えました。(その斡旋をしたのが、会津藩主保科正之です)
吉良上野介は、吉良義央(よしなか又はよしひさ)の通称です。
上杉家と吉良家の関係ですが、三代上杉定勝の娘「参姫」が吉良上野介義央に嫁ぎ
その息子、「吉良綱憲」が今度は4代上杉綱勝の養子に入り5代「上杉綱憲」と
なるのです。
更にその子「上杉義周」が今度は吉良家上野介の養子となり吉良家の家督を相続
しています。
上杉家と吉良家は二重のも三重にも深いつながりで結ばれていたのです。
その中で起きたのが皆さんご承知の赤穂浪士の吉良邸討ち入りです。
当然米沢の人は、年末のあの番組は見なかったようです。
それでは、前に戻りましょう。
財政困難となった米沢藩を後に救ったのが、上杉鷹山公です。
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「上杉家十代」いきづまった米沢藩を、卓越した発想と大胆な政策によって
再建した江戸時代隋一の名君として知られています。
宝暦元年(1751年)7月20日高鍋藩主、秋月種美(3万石)の二男として誕生
母は秋月藩黒田長貞の娘 春姫。(春姫の母は上杉家五代、綱憲の娘)
鷹山は、重定の正室が生んだ女子、幸姫(ゆきひめ)と将来結婚することを前提
に、宝暦10年、正式に上杉家の養子となり上杉治憲となる。
ところが、この幸姫との間に、夫婦としての関係を生涯持ちえなかったのです。
幸姫は、心身ともに発育が遅れており、10歳にも満たぬ幼女同然だったからです。
しかし鷹山はこの幸姫を、いつくしみ続けるのです。
鷹山が、幸姫を相手に、ひな飾りや玩具遊びをする姿を見て、お付きの女中たちは
涙を流したといわれています。
鷹山は、自らが率先して倹約することで、大倹を断行したのです。
藩主の生活費のすべてである江戸における年間仕切料は、これまで千五百両だった
のを、これを二百九両余まで圧縮しました。
日常の食事は一汁一菜、衣服は綿衣とし、五十人もいた奥女中は九人に減らしました。
自ら鍬を持ち、人々に食べられる草花や木々を教え、米の採れない大飢饉の時は、
それを食べてしのげたとか聞きます。
口減らしの為、年寄りを捨てていたとき、鷹山は今で言う年金制度のようなものを
作り、70歳以上は村で面倒を見て、90歳以上は死ぬまで食べさせたといいます。
かなり、長くなってきたので、この辺にしておきます。
今の政治家も見習いなさい!
PS:鷹山公は江戸には側室を持たず、米沢に一人だけ居ました。生涯深い信頼関係だった聞きます。
こんな話があります。 アメリカ合衆国大統領J.F.ケネディに
日本の記者団が質問をしました。
『日本の政治家で最も尊敬できる政治家は誰ですか?』と尋ねました。
すると大統領は、上杉鷹山と答えたのです。
しかし、日本の記者は誰も彼の名前を知らなかったのです。
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「伝国之辞」は、鷹山の政治理念
一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には無之候。
一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候。
「五什組合」
1.五人組は常にむつまじく交りて苦楽をともにすること、家族の如くなるべし。
1.十人組は時々親しく出入りして家事を聞くこと、親類の如くなるべし。
1.一村は互いに助け合い、互いに救い合いたのもしきこと、朋友の如くなるべし。
1.組合村は患難にあって助け、隣村よしみ甲斐あるべし。
「郷村教導出役」の任務
1.天道を敬うことを教える事
1.父母への孝行を教える事
1.家内睦まじく親類親しむことを教える事
1.頼りなき者をいたわって渡世させる事
1.民の害を除き民の潤益をとり行う事
1.上に立ち百姓を取扱う諸役人の邪正に注意する事
1.往来の病人をいたわる事
次は、一生妻だけを愛した、武将を紹介します。
本当に、老人の年金からまでお金を搾り取ろうとする今の政治家どもに、鷹山公の爪の垢でも飲ませてやりたいです。
お見舞い申します。
吉良上野介義央 よしひさ と訓む本もありますが、どちらでしょうね?
日本の記者は誰も彼の名前を知らなかったのです < これには異論が出そうですね。
anyhow 桃 源児さんのご意見には全面的に賛成です!
そんなに長々真面目に書くのは
十二指腸潰瘍に悪いから、
当分禁止ですっ!
聞かせたい話ですよね
私利私欲しか考えない~
年金制度まで~とは
すごいことです (^_-)-☆
ケネディは本を読んだのでしょうか?
教科書には出てこない人物ですからね。
この件で有名になった、鷹山公です。
(よしひさとも?)と付け加えているものが、
私も、付け加えておきます。
でも、ブログも気になってね~
それがいけないんですね。 反省
政治家も官僚も本音を喋らないで
自分を守るだけですね。
話になりません。
早く良くなるといいですね。
とうとう入院しちゃいました。
後程、お邪魔します。