去年はこのポスターで有名になりましたね。
その1は説明を中心に、その2は写真を中心にUPします。
お祭りは、夜10時から翌朝7時までなので、お祭りを見に行くのは大変なので
お祭り前に見学してきました。
蘇民祭とは、蘇民将来の祭事で、かつては全国的に催されていましたが、今日ではその伝承も少なくなってきたようです。
岩手県内でも他に四ケ所程ありますが、黒石寺(こくせきじ)の蘇民祭が、その中でも秀でているのは、長い伝統と特異性で祭りの規模や迫力からでしょう。
この祭は、陰暦の正月七日から八日にかけて行われる。
いつ頃から始まったものか定かではありませんが、黒石寺の開山は天平二年(730)とされ、岩手県内では浄法寺町の天台寺と並んで古刹だけに、蘇民祭も古くから行われていたようだ。
※天台寺は、数年前まで瀬戸内寂聴さんが御住職をされていました。
瀬戸内寂聴さんは1973年に中尊寺で得度しています。
天台寺の話しはまた機会がありましたら記事にさせていただきます。
これまた、色々ありましてね、毎年法話をしに瀬戸内寂聴さんが見えてました。
話しを戻します。
江戸時代の国学者である菅江真澄が蘇民祭を見聞し、その著『配志和乃若葉』(はいしわのわかば)に当時の祭事の様子を書いています。
……蘇民将来の神符を争奪しあう檀徒の集団は、一糸もまとわず、素裸で争い死人さえでたと記し、「世にもめづらしきあらがい祭りなり」と語っています。
これが記されたのは天明六年(1786)だから、223年もの昔から荒々しい祭事だったようです。
現在も当時と同じように素裸の男も多いようです。
そんな所から、我が国で屈指の奇祭で裸祭りといわれいる。
今年は2月1日です。
ポスターは毎年、静と動を交互に作成すると言ってましたね。
蘇民将来とは
護符の一種。 八角柱の木片に『蘇民将来子孫也』と書いたもの又は、守札。
京都の祇園、上田市の国分寺、新発田市の天王寺等で発行。
水沢市の蘇民祭は裸祭で護符を取り合う。
牛頭(ごず)天王、武塔神、素戔嗚尊(すさのお)が旅に飢え、宿をこうたが金持ちの巨旦(こたん)将来は拒絶。
貧しい弟の蘇民将来は茅(かや)の床に粟(あわ)の飯で歓待した。
神はお礼に茅の輪と護符を残し、これを持つ者は、無病息災と告げたという話しに由来する。
茅の輪(ちのわ)
6月30日の六月祓(みなづきはらえ)
夏越の祓(なごしのはらえ)に用いるチガヤの輪でスゲで作ったものを(すがぬき)ともいう。
チガヤを束ねて輪の形に作り、これを参詣人がくぐれば病災を免れるという。
《備後国風土記》逸文に見える武塔神の説話に由来するとされている。
ひーさん振り向かないでさっさと行って下さい。
田村麻呂と黒石寺
延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂は、鎮守府胆沢城を築き、城内に鎮守府八幡宮神社、城輪(きのわ)に石手堰(いわでい)神社を官寺として建立、当山薬師寺はその神宮寺的な存在となった。
しかしこの胆沢の地は北上川の扇状地の肥沃な地で、阿弖流為(あてるい)や母礼(もれ)を族長とする集落でもあった。田村麻呂朝廷軍は数次に亘り、数万の兵をもってこれを従え城を築いたのであったがしばしば蝦夷(えみし)による反抗には悩まされ続けた。胆沢城は多賀城に次ぐ国府であり、奥州支配の最北端であった。4000人の移住民の中には、軍監、医師、弩師(ゆみし)、楽師、陰陽師、兵士、柵戸が居たことであろう。
HPから引用 妙見山黒石寺
行事の一覧
この本にも、ぎっちり書いてました。
下巻だけでも8ページに渡ります。
黒石寺その2へ
その1は説明を中心に、その2は写真を中心にUPします。
お祭りは、夜10時から翌朝7時までなので、お祭りを見に行くのは大変なので
お祭り前に見学してきました。
蘇民祭とは、蘇民将来の祭事で、かつては全国的に催されていましたが、今日ではその伝承も少なくなってきたようです。
岩手県内でも他に四ケ所程ありますが、黒石寺(こくせきじ)の蘇民祭が、その中でも秀でているのは、長い伝統と特異性で祭りの規模や迫力からでしょう。
この祭は、陰暦の正月七日から八日にかけて行われる。
いつ頃から始まったものか定かではありませんが、黒石寺の開山は天平二年(730)とされ、岩手県内では浄法寺町の天台寺と並んで古刹だけに、蘇民祭も古くから行われていたようだ。
※天台寺は、数年前まで瀬戸内寂聴さんが御住職をされていました。
瀬戸内寂聴さんは1973年に中尊寺で得度しています。
天台寺の話しはまた機会がありましたら記事にさせていただきます。
これまた、色々ありましてね、毎年法話をしに瀬戸内寂聴さんが見えてました。
話しを戻します。
江戸時代の国学者である菅江真澄が蘇民祭を見聞し、その著『配志和乃若葉』(はいしわのわかば)に当時の祭事の様子を書いています。
……蘇民将来の神符を争奪しあう檀徒の集団は、一糸もまとわず、素裸で争い死人さえでたと記し、「世にもめづらしきあらがい祭りなり」と語っています。
これが記されたのは天明六年(1786)だから、223年もの昔から荒々しい祭事だったようです。
現在も当時と同じように素裸の男も多いようです。
そんな所から、我が国で屈指の奇祭で裸祭りといわれいる。
今年は2月1日です。
ポスターは毎年、静と動を交互に作成すると言ってましたね。
蘇民将来とは
護符の一種。 八角柱の木片に『蘇民将来子孫也』と書いたもの又は、守札。
京都の祇園、上田市の国分寺、新発田市の天王寺等で発行。
水沢市の蘇民祭は裸祭で護符を取り合う。
牛頭(ごず)天王、武塔神、素戔嗚尊(すさのお)が旅に飢え、宿をこうたが金持ちの巨旦(こたん)将来は拒絶。
貧しい弟の蘇民将来は茅(かや)の床に粟(あわ)の飯で歓待した。
神はお礼に茅の輪と護符を残し、これを持つ者は、無病息災と告げたという話しに由来する。
茅の輪(ちのわ)
6月30日の六月祓(みなづきはらえ)
夏越の祓(なごしのはらえ)に用いるチガヤの輪でスゲで作ったものを(すがぬき)ともいう。
チガヤを束ねて輪の形に作り、これを参詣人がくぐれば病災を免れるという。
《備後国風土記》逸文に見える武塔神の説話に由来するとされている。
ひーさん振り向かないでさっさと行って下さい。
田村麻呂と黒石寺
延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂は、鎮守府胆沢城を築き、城内に鎮守府八幡宮神社、城輪(きのわ)に石手堰(いわでい)神社を官寺として建立、当山薬師寺はその神宮寺的な存在となった。
しかしこの胆沢の地は北上川の扇状地の肥沃な地で、阿弖流為(あてるい)や母礼(もれ)を族長とする集落でもあった。田村麻呂朝廷軍は数次に亘り、数万の兵をもってこれを従え城を築いたのであったがしばしば蝦夷(えみし)による反抗には悩まされ続けた。胆沢城は多賀城に次ぐ国府であり、奥州支配の最北端であった。4000人の移住民の中には、軍監、医師、弩師(ゆみし)、楽師、陰陽師、兵士、柵戸が居たことであろう。
HPから引用 妙見山黒石寺
行事の一覧
この本にも、ぎっちり書いてました。
下巻だけでも8ページに渡ります。
黒石寺その2へ
でしたが、あのポスターで思い出しました。
インパクトの強いポスターでしたね。
今年のポスターは地味ですが、味わいがあります。
黒石寺が古刹で屈指のお寺とはしりませんでした。
今年は岩手にも出かけてみたいなぁ~と
この記事を見て思っています。
あちらのコメントにも書きましたが、この寺よりも、近くにある寺の方が良く耳にしていたものですから。
阿刀田令造さんって
あの作家の阿刀田 高さんと関係有り?
どこやらの徘徊者も新小岩にあったのをUPしてるようです ww
今年のは、またおとなしいなと思ったら、動と静 隔年交代でしたか。
仙台のイケメン ひーさん 素顔で登場♪
その2の動画を見るとわかりますよ。
お茶のようなものを飲んでました。
鉄狛には驚きました。
そう言えば、塩釜神社の狛犬集はまだ全部では無く、携帯で撮ったものですので撮り直すつもりです。
それに比べると、今年のポスターのおとなしいこと。
静と動を交互にということは、来年がどうなるのか、ちょっと気になります。
ズームインかなんかでお宅拝見?的にインタビュー見ましたわ~以前。
もぉ出ないってぇ~ 涙
今日、茅の輪♪ 人生初でくぐってきました~ 明日またアップします♪
基本的に目立ちますね。
茅の輪・・・・私は知恵の輪で悩んでます。