元禄二年(1689年) 5月15日
俳聖芭蕉は、門人の曾良をともなって、仙台領 尿前の関を越え、出羽の国と旅を急ぎました。
しかし、もう日暮れになってしまいました。
芭蕉は、「奥の細道」にこう綴っています。
大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。
三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す
『蚤虱 馬の尿する 枕元』
のみしらみ うまの しとする まくらもと
曾良は、「十七日快晴、堺田ヲ立ツ」と日記にしたためています。
二人は、主人から案内の若者をつけてもらい、山刀伐峠(なたぎり)の難所を越えて、
尾花沢の鈴木清風を尋ねて行ったのです。
鈴木清風は本名を島田屋・鈴木八右衛門といい、清風は俳号。
最上村山地方の紅花や、青そ、米などの買継問屋と金貸し業もする様な「総合商社」の三代目に生まれました。
有名な逸話に、紅花の不買同盟に対して、商品を焼き捨てた様に見せかけて大商いをしたなど、気骨のある商人として伝えられています。
また談林派の俳人としても知られており、芭蕉とは、江戸での俳席を共にしてよりの知人でり、おくのほそ道の行脚を促したことなどを考えると、親しい交流があった事がうかがえます。
芭蕉・清風歴史資料館より参照
前置きが長くなりました。
土間から中に入ると馬小屋が3つ並んでいます。
馬小屋の上にも2階らしき部屋とゆうか物置のようになっていて
土間には竈があり、板の間には囲炉裏がある。
その奥には、中座敷があり、どうも芭蕉はこの「なかざしき」に寝たのではないかと、
おじさんは説明してくれた。
俳聖芭蕉は、門人の曾良をともなって、仙台領 尿前の関を越え、出羽の国と旅を急ぎました。
しかし、もう日暮れになってしまいました。
芭蕉は、「奥の細道」にこう綴っています。
大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。
三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す
『蚤虱 馬の尿する 枕元』
のみしらみ うまの しとする まくらもと
曾良は、「十七日快晴、堺田ヲ立ツ」と日記にしたためています。
二人は、主人から案内の若者をつけてもらい、山刀伐峠(なたぎり)の難所を越えて、
尾花沢の鈴木清風を尋ねて行ったのです。
鈴木清風は本名を島田屋・鈴木八右衛門といい、清風は俳号。
最上村山地方の紅花や、青そ、米などの買継問屋と金貸し業もする様な「総合商社」の三代目に生まれました。
有名な逸話に、紅花の不買同盟に対して、商品を焼き捨てた様に見せかけて大商いをしたなど、気骨のある商人として伝えられています。
また談林派の俳人としても知られており、芭蕉とは、江戸での俳席を共にしてよりの知人でり、おくのほそ道の行脚を促したことなどを考えると、親しい交流があった事がうかがえます。
芭蕉・清風歴史資料館より参照
前置きが長くなりました。
土間から中に入ると馬小屋が3つ並んでいます。
馬小屋の上にも2階らしき部屋とゆうか物置のようになっていて
土間には竈があり、板の間には囲炉裏がある。
その奥には、中座敷があり、どうも芭蕉はこの「なかざしき」に寝たのではないかと、
おじさんは説明してくれた。
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