ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

封人の家《芭蕉ゆかりの宿》 2

2007年10月05日 13時59分08秒 | 山形県の散歩道
元禄二年(1689年) 5月15日

俳聖芭蕉は、門人の曾良をともなって、仙台領 尿前の関を越え、出羽の国と旅を急ぎました。

しかし、もう日暮れになってしまいました。

芭蕉は、「奥の細道」にこう綴っています。

大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。

三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す

   『蚤虱 馬の尿する 枕元』  
のみしらみ うまの しとする まくらもと


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曾良は、「十七日快晴、堺田ヲ立ツ」と日記にしたためています。

二人は、主人から案内の若者をつけてもらい、山刀伐峠(なたぎり)の難所を越えて、

尾花沢の鈴木清風を尋ねて行ったのです。

鈴木清風は本名を島田屋・鈴木八右衛門といい、清風は俳号。
 最上村山地方の紅花や、青そ、米などの買継問屋と金貸し業もする様な「総合商社」の三代目に生まれました。
 有名な逸話に、紅花の不買同盟に対して、商品を焼き捨てた様に見せかけて大商いをしたなど、気骨のある商人として伝えられています。
 また談林派の俳人としても知られており、芭蕉とは、江戸での俳席を共にしてよりの知人でり、おくのほそ道の行脚を促したことなどを考えると、親しい交流があった事がうかがえます。
芭蕉・清風歴史資料館より参照


前置きが長くなりました。

土間から中に入ると馬小屋が3つ並んでいます。

馬小屋の上にも2階らしき部屋とゆうか物置のようになっていて

土間には竈があり、板の間には囲炉裏がある。

その奥には、中座敷があり、どうも芭蕉はこの「なかざしき」に寝たのではないかと、

おじさんは説明してくれた。

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