定義道・・・定義如来と平家落人伝説 2
平貞能(たいらのさだよし)・・・・誰?と思いますので、家系図を挿入しました。
桓武平氏系図
※平重盛(1138~1179)
平安末期の武将。 清盛の長男であり、通称、小松内府(こまつないふ)、灯篭大臣という。
保元・平治の乱に功あり累進して左近衛大将内大臣を兼ねた。
性謹直、温厚で武勇人に勝れ、忠孝の心が深かったと伝えられる。(広辞苑より)
平重盛は治承二年(1178)の秋、重い病にかかり、死期が迫っていることを感じた。
公は、老臣肥後守貞能(さだよし)を枕元に呼び※中国伝来の御霊像を授け、永く後世に伝えて、天皇を始め平氏一族加えて世の人々の後生と自らの死後の菩提を弔うように伝えた。
治承三年四月 四十二歳 死去
公の遺命(死後に残した命令)を受けて貞能(さだよし)は、日夜礼拝供養を続けた。
その様子は、生前重盛公にお使えする様なお姿だったそうです。
翌4年9月義仲の変にあった平氏は、清盛の死後、威勢は次第に落ちてきたのです。
平宗盛公は敗走するのに西国を選んでいました。
※平宗盛=清盛の子・重盛の弟、一族と共に安徳天皇を奉じて敗走、壇の浦で捕らえられ後に近江で斬(1147~1185)
※敗走=戦いに負けて逃げ走ること
その様子を平家物語には次のように記されています。
同じき七月四日、肥後守貞能、鎮西(ちんぜい)の謀反平らげて、菊池・原田・松浦党以下三千余騎を召し具して上洛す。
鎮西は、わずかに平らげども、東国、北国の軍いかにもしずまらず。
平家物語 巻第七 主上都落
※鎮西=(743~745)大宰府を鎮西府と称したことから、九州のことです。
※召し具して=そばに呼び寄せてお連れになる。
平家が、このような状態の京都へ、義仲軍が上洛を開始するにあたり、わずかに肥後守貞能が周辺の源氏方を平らげ、三千余の騎を引き連れて上洛してきたのがせめてもの慰めであった。
しかし、義仲の大軍はすでに近江まで押し寄せてきていました。
平家物語によると この内容は下記の内容です読まなくてもかまいません
京中に残り留まる平家の余党を討たんとて、貞能が帰り入る由聞えしかば、池大納言「盛が上でぞあらん」とて、大きに恐れ騒がけり。貞能は西八条の焼け跡に大幕引かせ、一夜宿したりけれども、帰り入り給ふ平家の公達一所もおはせねばさすが心細うや思ひけん、源氏の馬の蹄にかけじとて、小松殿の御墓場掘らせ、御骨に向かい奉って、泣く泣く申しけるは、「あなあさまし、御一門の御果御覧候へ。『生ある者は必ず減す。楽しみ尽きて悲しみ来る』と古より書きおきたる事にて候へども、まのあたりかかる憂き事候はず。君はかようの事をまず悟らせ給ひて、かねて仏神三宝に御祈誓あって、御世を早うせさせましけるにこそ。ありがたうこそ覚え候へ。其の時貞能も最後の御共仕るべう候ひけるものを、かひなき命を生きて今はかかる憂き目に逢ひ候。死期の時は必ず一仏土へ迎へさせ給へ」と泣く泣く遙かにかき口説き、骨をば高野へ送り、傍の土をば加茂河に流させ、世の有様頼もしからずや思ひけん。 (平家物語 巻第七 池殿都落)
貞能は平宗盛公の敗走を聞き容れられないので諦め手段がなくなった。
ただ心配なのは亡君重盛公の墳墓が敵の馬蹄に踏みにじられることを嘆き悲しみ密かに遺骨を発掘して高野山へ移し納めたのです。
その後臣節を全うして宗盛公の軍に従い、一ノ谷、屋島と戦いに敗れ遂に壇ノ浦にて二位尼は、安徳天皇(8歳)を抱いて入水した。
平宗盛は生け捕られ、平氏は滅亡となる(元暦2年(文治元年)1185年3月24日)
ところが一ノ谷、屋島と戦いながら西へと向かったが軍は離れ離れになり本軍にはぐれてしまった集団もいた、貞能は其の中にいたのです。
一度は死を固く誓ったが、平氏一族が絶えたことをさとり意を決して重盛公の遺命を守り戦いの折、片時も離さなかった阿弥陀如来のご霊像を持ち従臣数人を従えて常陸に隠れ髪を剃り出家した。
貞能は「肥後入道」と称されていましたが、平氏の生存者に対する源氏の追討が厳しくなってきた。
貞能は従臣等と共に東奥に逃れ、人里離れた奥深い渓谷に身を潜め居を構えられたのです。
つづく
ホームページに纏めています。
定義如来1
定義如来2
平貞能(たいらのさだよし)・・・・誰?と思いますので、家系図を挿入しました。
桓武平氏系図
※平重盛(1138~1179)
平安末期の武将。 清盛の長男であり、通称、小松内府(こまつないふ)、灯篭大臣という。
保元・平治の乱に功あり累進して左近衛大将内大臣を兼ねた。
性謹直、温厚で武勇人に勝れ、忠孝の心が深かったと伝えられる。(広辞苑より)
平重盛は治承二年(1178)の秋、重い病にかかり、死期が迫っていることを感じた。
公は、老臣肥後守貞能(さだよし)を枕元に呼び※中国伝来の御霊像を授け、永く後世に伝えて、天皇を始め平氏一族加えて世の人々の後生と自らの死後の菩提を弔うように伝えた。
治承三年四月 四十二歳 死去
公の遺命(死後に残した命令)を受けて貞能(さだよし)は、日夜礼拝供養を続けた。
その様子は、生前重盛公にお使えする様なお姿だったそうです。
翌4年9月義仲の変にあった平氏は、清盛の死後、威勢は次第に落ちてきたのです。
平宗盛公は敗走するのに西国を選んでいました。
※平宗盛=清盛の子・重盛の弟、一族と共に安徳天皇を奉じて敗走、壇の浦で捕らえられ後に近江で斬(1147~1185)
※敗走=戦いに負けて逃げ走ること
その様子を平家物語には次のように記されています。
同じき七月四日、肥後守貞能、鎮西(ちんぜい)の謀反平らげて、菊池・原田・松浦党以下三千余騎を召し具して上洛す。
鎮西は、わずかに平らげども、東国、北国の軍いかにもしずまらず。
平家物語 巻第七 主上都落
※鎮西=(743~745)大宰府を鎮西府と称したことから、九州のことです。
※召し具して=そばに呼び寄せてお連れになる。
平家が、このような状態の京都へ、義仲軍が上洛を開始するにあたり、わずかに肥後守貞能が周辺の源氏方を平らげ、三千余の騎を引き連れて上洛してきたのがせめてもの慰めであった。
しかし、義仲の大軍はすでに近江まで押し寄せてきていました。
平家物語によると この内容は下記の内容です読まなくてもかまいません
京中に残り留まる平家の余党を討たんとて、貞能が帰り入る由聞えしかば、池大納言「盛が上でぞあらん」とて、大きに恐れ騒がけり。貞能は西八条の焼け跡に大幕引かせ、一夜宿したりけれども、帰り入り給ふ平家の公達一所もおはせねばさすが心細うや思ひけん、源氏の馬の蹄にかけじとて、小松殿の御墓場掘らせ、御骨に向かい奉って、泣く泣く申しけるは、「あなあさまし、御一門の御果御覧候へ。『生ある者は必ず減す。楽しみ尽きて悲しみ来る』と古より書きおきたる事にて候へども、まのあたりかかる憂き事候はず。君はかようの事をまず悟らせ給ひて、かねて仏神三宝に御祈誓あって、御世を早うせさせましけるにこそ。ありがたうこそ覚え候へ。其の時貞能も最後の御共仕るべう候ひけるものを、かひなき命を生きて今はかかる憂き目に逢ひ候。死期の時は必ず一仏土へ迎へさせ給へ」と泣く泣く遙かにかき口説き、骨をば高野へ送り、傍の土をば加茂河に流させ、世の有様頼もしからずや思ひけん。 (平家物語 巻第七 池殿都落)
貞能は平宗盛公の敗走を聞き容れられないので諦め手段がなくなった。
ただ心配なのは亡君重盛公の墳墓が敵の馬蹄に踏みにじられることを嘆き悲しみ密かに遺骨を発掘して高野山へ移し納めたのです。
その後臣節を全うして宗盛公の軍に従い、一ノ谷、屋島と戦いに敗れ遂に壇ノ浦にて二位尼は、安徳天皇(8歳)を抱いて入水した。
平宗盛は生け捕られ、平氏は滅亡となる(元暦2年(文治元年)1185年3月24日)
ところが一ノ谷、屋島と戦いながら西へと向かったが軍は離れ離れになり本軍にはぐれてしまった集団もいた、貞能は其の中にいたのです。
一度は死を固く誓ったが、平氏一族が絶えたことをさとり意を決して重盛公の遺命を守り戦いの折、片時も離さなかった阿弥陀如来のご霊像を持ち従臣数人を従えて常陸に隠れ髪を剃り出家した。
貞能は「肥後入道」と称されていましたが、平氏の生存者に対する源氏の追討が厳しくなってきた。
貞能は従臣等と共に東奥に逃れ、人里離れた奥深い渓谷に身を潜め居を構えられたのです。
つづく
ホームページに纏めています。
定義如来1
定義如来2
今日のガハハ会は行けそうですか?
行けるのだったら、ぐずらが飲みすぎないように見張っててください。
よろしくお願いします。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
~」これ丸暗記させられました~!枕草子と同様に全文。
「おごれる者も久しからず。。」
まったくその通りですよね。
そうしなければ
逆の立場になることを恐れた
いつの世も
生死は別にして
同じようなことがありますね
状況はブログにコメントしましょう。
桃源児さんの辺りには、顔が効いたようですね。
しかし、個人的には誰しも戦いなどを望んではいないはずです。
後に書きますが、義経と一晩夜を共にした地が残っております。
ひーさん宅には敦盛草があったんでしたっけ?
木陰にひそやかに花を咲かせる姿に無常を感じますね。
源氏の場合、一族に他の氏族が加わった連合体でした。
その点、平家は一族そのものが主体で、その分キャラクターが豊富ですね。
廃止されてしまいましたが、屋島のケーブルカーが懐かしいです。
走行中の大音量のBGM。「ぎおんしょーじゃのかねのこえー ベベンベン!」
屋島は何十年も行ってませんが、ケーブルが無くなりましたか・・・
昨日は一月前から決まってましたので、忘年会ということもありましてね。
欠席していいぞ!と言われましたが、参加しましたよ。
BGMで琵琶の音でも聴いてますか?変わり者と言われますよ。