ここまで来ると、書かないわけには行かないので、簡単に説明します。
必要の無い方は、藤原の郷の写真をご覧下さい。
後三年の役 (1083~1087)
源頼義は経清を激しく罵倒し、さらに深い恨みから鈍刀(切れ味がにぶくなった刀)で経清の首を切りました。
藤原三代の初代となる清衡は、「前九年合戦」の最中に誕生します。
父(経清)が亡くなると、敵対した清原氏(清原武貞)に母(経清の妻)は嫁となり、清衡は養子となるわけです、いわゆる戦利品として連れられて行かれます。
当時七歳だった清衡は、清原清衡を名乗るわけです。
1、清原家には、武貞の長子である真衡がいます。
2、そこに養子の清衡が入ります。
3、母が異父弟・家衡を産みます。
ここのポイントは清衡と家衡が同じ母の兄弟であると言うことです。
清原家の一族に内紛が起こります。
原因は、武則の孫の真衡による嫡男の独裁でした。
永保3年(1038)、一族の長老・吉彦秀武が反旗をひるがえし、清衡・家衡はその味方になります。
この年、偶然に源義家が陸奥守として赴任。
しかし、真衡は間も無く急死します。
義家は、清衡・家衡兄弟に陸奥六郡を二分して三郡ずつを与えました。
清衡には、「温暖で土地の肥沃な南の三郡(胆沢・江刺・和賀)」
家衡には、「寒冷で三地の多い北の三郡(稗貫・紫波・岩手)」が与えられます。
これが、新たな火種となり家衡が不満を爆発!!
家衡は、清衡の館を襲いその妻子を殺害! 清衡は、窮地を脱し義家に救助を求めます。
陸奥に対する野心があった義家は家衡が本拠地とした出羽の沼柵(秋田県雄物川)を攻撃、家衡方も武衡と連合し、金沢柵(秋田県横手市)へ根拠を移し抵抗しますが、寛治元年(1087)、義家・清衡連合軍ににより金沢柵は陥落、家衡・武衡は討死、ここに「後三年合戦」は終わりをつげるのです。
あ~長かった・・・しばらく歴史は休みますかね、現在落人伝説をお勉強中・・・ もう一つデカイ辞典を図書館から借りてきてしまいました。www
前九年の役はこちら
清衡館
清衡館も立派な造りでしだね、ロケ用の安っぽい建物では無く、しっかり建てられています。
内部の様子・・・
この清衡館での撮影風景です。
清衡館北門↓
清衡館での天地人のロケ風景
舞楽殿
舞楽殿の近くにある、望楼櫓
望楼櫓の下では、こんなシーンが・・・
またあした・・・
必要の無い方は、藤原の郷の写真をご覧下さい。
後三年の役 (1083~1087)
源頼義は経清を激しく罵倒し、さらに深い恨みから鈍刀(切れ味がにぶくなった刀)で経清の首を切りました。
藤原三代の初代となる清衡は、「前九年合戦」の最中に誕生します。
父(経清)が亡くなると、敵対した清原氏(清原武貞)に母(経清の妻)は嫁となり、清衡は養子となるわけです、いわゆる戦利品として連れられて行かれます。
当時七歳だった清衡は、清原清衡を名乗るわけです。
1、清原家には、武貞の長子である真衡がいます。
2、そこに養子の清衡が入ります。
3、母が異父弟・家衡を産みます。
ここのポイントは清衡と家衡が同じ母の兄弟であると言うことです。
清原家の一族に内紛が起こります。
原因は、武則の孫の真衡による嫡男の独裁でした。
永保3年(1038)、一族の長老・吉彦秀武が反旗をひるがえし、清衡・家衡はその味方になります。
この年、偶然に源義家が陸奥守として赴任。
しかし、真衡は間も無く急死します。
義家は、清衡・家衡兄弟に陸奥六郡を二分して三郡ずつを与えました。
清衡には、「温暖で土地の肥沃な南の三郡(胆沢・江刺・和賀)」
家衡には、「寒冷で三地の多い北の三郡(稗貫・紫波・岩手)」が与えられます。
これが、新たな火種となり家衡が不満を爆発!!
家衡は、清衡の館を襲いその妻子を殺害! 清衡は、窮地を脱し義家に救助を求めます。
陸奥に対する野心があった義家は家衡が本拠地とした出羽の沼柵(秋田県雄物川)を攻撃、家衡方も武衡と連合し、金沢柵(秋田県横手市)へ根拠を移し抵抗しますが、寛治元年(1087)、義家・清衡連合軍ににより金沢柵は陥落、家衡・武衡は討死、ここに「後三年合戦」は終わりをつげるのです。
あ~長かった・・・しばらく歴史は休みますかね、現在落人伝説をお勉強中・・・ もう一つデカイ辞典を図書館から借りてきてしまいました。www
前九年の役はこちら
清衡館
清衡館も立派な造りでしだね、ロケ用の安っぽい建物では無く、しっかり建てられています。
内部の様子・・・
この清衡館での撮影風景です。
清衡館北門↓
清衡館での天地人のロケ風景
舞楽殿
舞楽殿の近くにある、望楼櫓
望楼櫓の下では、こんなシーンが・・・
またあした・・・
妻夫木くんはいい男すぎて
今日も太平記、ちょっと見ました
父ちゃんのを借りてますんで、かかってるのを眺めてます
でも、見てると面白いです
俳優さんがみんな若い
つまり途中まで分かったんだけど・・・
兄弟に陸奥六郡を二分して三郡ずつを与えその不公平で怒って戦争になった事は分かったけど・・・
真衡による独裁を倒すのに
一族の長老・吉彦秀武が反旗をひるがえし兄弟の清衡・家衡がその味方になったまでも分かったけど・・・
途中独裁者が病死で亡くなって
兄弟に土地を分けた義家って誰?
最初は一族の長老・吉彦秀武から急に義家になっているよねぇ~
家系図をみたもその義家ってどこにあるの?
もしかして
一族の長老・吉彦秀武と義家って同じ人?
思い出しましたが
上杉謙信は
男色だったとか~ (^_-)~☆
昔から家に居ない方が多かったですから・・・
俳優さん達が若いと、こんな時期あったなぁ~と懐かしくなります。
いっくさんには、新鮮かもね?
清衡、源氏の力をたくみに利用したという感じがします。この後、義家は陸奥守を解任され、朝廷からの恩賞もなく、仕方なく自分の領地から部下達に褒美を出さなければならなかった。
こういう事情が後々、頼朝の陸奥への野心に繋がる気がします。
人物が沢山出てくるので、ややこしくなりますね、それに親子は名前似てるし・・・
義家は前九年の前の記事を読まないと解りません。この戦いは繋がっていますから。
義家はつまり国の役人です。
後三年の役は、簡単に言うと兄弟喧嘩であり、家督相続争いとでも言いますかね。
でもこれは、何度も話を聞いていたから、自分もやっと理解が出来たので、短く略した記事では、なかなか難しいですね。すみません!!
仮説はどうにでも解釈できますからね。
政宗にも、男色の噂はあります。
でも、チョット???と思うので記事にしようか悩んでました。
近いうちに、そんな話もしたいと思います。
朝帰りで、寝てないものですから、眠くなってきました。桃源児さんはこの時代はあまり興味が無いのかと思ってました。
藤原と源・・・因縁なのでしょう。
やはり赴任してきた国司達は、蝦夷の金銀財宝を見て、欲に目がくらんだのでしょう。
それが、根本的原因だと思います。
ありも無い事件の犯人に仕立て上げ、安倍氏を蜂起させたのですから・・・
次からは、楽な記事にします。
2月まで見てたんですが…今はチラ見状態です。
妻夫木くんは可愛すぎ…兼続はほんとはもっと男っぽかったんじゃないかなあ
戦国時代の武将って、男色がけっこう多いですよね。
謙信はストイックすぎる~
覚えた事頭に入れてテレビ見ると
もっと楽しく見れそう!!
イケメン好きのpapieeには妻夫木君は
はずせません