絵のタイトルは、海女城です。
来たよ、沖縄。
そんな気持ちで描きました。
今日のテーマは、「余韻(Part2)」です。
余韻とは、
音の消えたあとでも残る響き。
転じて、事が終わったあとも残る風情や味わい。また、詩文などの言葉に表されていない趣。余情。
2016年2月25日投稿記事「余韻」では、
アグネッタ(アバのボーカル)は、私達に感動そのものではなく、「感動する力」をくれているのじゃないかと。
(余韻より抜粋)
なぜ、余韻について書こうとしたのか。
一生懸命何かをやりました。
忘れたころに、誰かから反応が起こります。
心の余韻。
確かにおまけのような喜びです。
小説や歌、全ての行動に余韻があります。
爽やかなのか、歯ぎしりのような悔しさなのか、人それぞれです。
剣道の残心(激突した後、敵の反撃に備える心の構え:広辞苑より)は、
倒したかもしれない敵が反撃することを前提にした心の持ち方です。
敵をリスペクトしているからです。準備です。
(余韻より抜粋)
これは、ちょっと面倒くさいような感覚です。
大事な作法です。ごめんなさい。
かつて、剣道を習っていた頃、打ちあった後、竹刀で身体を撫でられたことがあります。
その執拗さに、本当に切られているんではないかとイヤーな気持ちになったことがります。
ことが終わったあとも残る風情や味わい。
彼女と過ごしたあとのモーニングコーヒーとも違う。
任侠映画を観て、出てくる観客が一様に肩をいからしているのとも違う。
源氏物語の主を送った後、すすきを揺らす風とも違う。
なんなんだ、余韻とは。
言葉に表されていない趣。
このみょうちくりんな感覚のことです。
一生懸命に生きています。
身体のあちこちに支障が出ています。
しかし、やり抜いたと言うか、爽やかさがあります。
分かってもらってるんじゃないだろうかという安心感です。
アグネッタのように、「感動するちから」を配信できると良いな。
生き様です。
余韻を残すような生き方をしたい。
いずれは忘れられると判っていても、一瞬だけほほをくすぐる風になれたら。
つまりは、自分がそう感じられるかということかもしれません。
物事や事象に感じることができる。
面白い話を聞いた後に、誰かに幸せを分けてあげたい。
それには、間が必要です。
相手が理解する間です。
笑顔であったり、スキップだったり。
言葉は不要です。
言外のこころを知りたい。
言えぬ苦しみを分かってあげたい。
まだ先は長いと感じます。
「余韻(Part2)」でした。
雨の日に 洗濯干して 晴れになれ
2018年7月6日