人間の「欲しい」には際限がない。
その中で、もっとも厄介だと思うのが「安心が欲しい」だと思う。
そもそも動物は、安心とは無縁の生活を送っていた。
いま、人間だけが安心を手に入れようとしている。
子供に高い教育を受けさせて、いい大学を出ていい会社に就職させたいと願うのも安心のためだ。
家を持ちたいと願うのも安心のため。
医療保険や終身保険に入るのもそうだ。
自然界で生きる動物にとって、「安全を手に入れる」ということは、ある意味、神の作った世界に不満を持つという事で、ダブーではなかったのだろうか。
現在も、人類は、人ゲノムの解明や遺伝子操作などをしている。
尊厳死の問題もあり、どこまでが神の引いた線なのか判らなくなっている。
しかし、人類は遠い昔、安全を手に入れようとした時、すでに自然界のタブーを犯していたのではないだろうか。
世界は、危険だ。
そして美しい。
人間の中にも、危険な世界で生きていた時代の記憶が残っているから、どんなに安全な世の中になっても、危険を求め、犯罪を犯す人間がいなくならないのではないか。
全てではないが、犯罪者の何割かの中には、そういう潜在的な何かが…あるような気がしてならない。
「人を殺してみたかった」
と言って人を襲う若者…彼らは、この安全過ぎる世界に強い不満と矛盾を感じていて、それが噴き出す形で犯行を行ったのではないだろうか。
猫は、常に音に敏感だ。
小さな音にも機敏に振り返り、自分の目で確認しようとする。
同じ部屋にいても、僕は振り返らない。
何でもない音に反応する猫を、バカだと言って笑っていた。
でも、今は違う。
その姿は、自分を取り囲む全ての物に警戒し危険な世界で必死に生きる姿なのだ。
その姿は、美しいとも言える。
逆に、他人が作った”安全”の中でのうのうと生きている僕は、なんと醜い存在なのか…。
そんな事を考えました。
■流星光Twitter
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