あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

裸身(はだかみ)に神うつりませ夏神楽   蕪村

2009-05-31 18:55:03 | 日記

神代植物園

夏の始まりという準備段階の季節ですね。
これからは雨が増え、紫陽花が輝く日々になりそうですね。
雨傘の明るい色合いと
紫陽花の淡い色合いの組み合わせ
そして、大きな木々の深い緑が愉しみですね。
一つで自己主張する花もあれば
組み合わせでそれぞれが生きる花がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

裸身(はだかみ)に神うつりませ夏神楽   蕪村

夏に河原に神棚を準備し神を祭り、みそぎをすることだという解説を読みました。
今に伝わる伝統行事ですね。
伝統行事が失われると心配しますが
新しい行事も同時に生まれているのですね。
人も同じですね。

この句も自分が参加できない作者が愉しみであり、ちょっとだけ
口惜しい、そんな気分も乗せていますね。
俳句は写生だという説もあります。
そうなると自分が景色の中にいないことも多いですね。
それが刺激が欲しい自分には表現がモノ足りなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日の新古今和歌集

ことしより花咲きそむる橘の いかで昔の香にほふらん 藤原定家

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜のひとりごと

どうでもいいけど
神代植物園でおばさんたちが話しをしているのを聞いていて気づいたのですが
「うちのバラも、もう咲いたわよ」
「この花、家にもあるわ」
「この花、家にも植えようかしら」
自分がもっていることへの関心
所有を中心にした話題が多いですね。
こどもが近所の家を説明するとき
大きな家、犬がいるというようなのと
延長軸にあるのですね。
なるほどというか、ちょっと違う。
和歌の世界で自分の家に咲いているとか
いないとか、そんなことをほとんど話題にしていない。
美意識の違いと感性の成熟度なのかもしれません。

もう一つ
女性はバラをバックにして写真を撮りたがる。
必ず半身にしている。
バラをバックにした写真を撮りたがるのは
自分を引き立たせるため
それとも記念だから
アリバイ証明
なのに一人でバックなしで写真を撮ることを極度に嫌いますね。
どうしてでしょうか?

社会学者は研究すべき命題ですね。




しぐれてぬれて待つ人がきた  山頭火

2009-05-31 06:06:22 | 日記
片倉城址

梅雨の時期
茅の茂みは独特の雰囲気を生みます。
人の背丈を越えたところまで成長します。
草花はし下から見上げることをしませんが
下から見上げると
ちょっとした威圧感がありますね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日の山頭火

しぐれてぬれて待つ人がきた  山頭火

山頭火の句から読み取れる「人」は
見知らぬところで出合った里の人であり
旅の途中での通りすがりの人であり
すれ違う人であっても、待ち合わせする人を想像できないのです。
でも、現実の山頭火は案外
現実的な人であり、周囲の人が「楽しい人だけど、一緒にいつまでもいて欲しくない人」と言いたげな人ではなかったのではないかと思うのです。
そんなことを思いながら読みました。
雨の中で立ち尽くす中年男の
寂しさが伝わってきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

石見の国で自らの死に臨んだ柿本朝臣人麻呂の歌
 
鴨山(かもやま)の岩根(いはね)し枕(ま)ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
 
【意味】

 鴨山の岩を枕にして横たわっている私だが、それを知らずに妻は今ごろ私を待っていてくれるだろうか。

石見に流された境涯を詠った歌だと思えば胸が痛いですね。
昔の人の歌とはいえ、「ひとり」でいること
その思いがどこにも伝わらない。
その不安の恐怖は想像できませんね。
あまり前で、そこそこ平凡
大きな破綻もなく生きてきたおじさんには
想像できない身を切るような寂しさなのでしょう。
想像とは自分の体験からしか生まれてきませんからね。

・・・・・・・・・・・・・・

今朝のひとりごと

姉妹編のブログ「あきオジのひとりごと」が更新できなくなりました。
理由は分りません。
操作ミスとも思えません。
以前もホームページが更新できなくなりました。
ま、いいか
新しい方法を考えましょう。
これまでもそうだったり
これからもそうだろう。
だとすれば
諦めと
新たらしい方策を実現するしか
ないのですから
まあ、いいか
ぼちぼちということです。

もし、「あきオジのひとりごと」見ている人がいたら
そんな事情です。