あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

言葉なきビルを覆う桜かな  あきオジ

2012-04-08 06:08:32 | 日記
新宿御苑です。

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今日は、ちょっと血圧が高いようです。

俳句を作るなどと思うことはめったにありません。
助詞の使い方がどうだとか、ああだとか、そんな面倒なことを学ぶつもりがありません。
俳壇で添削指導をしているようですが
ぞっとしますね。
本人よければそれでいい。
他人が添削したところで次の句はまた同じなのです。
そんな気がします。

それより、毎日続けることが大切なのです。
掃除するように続ける。
そんな当たり前にしたいのです。

それが素人の楽しみなのです。

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茶をすすめ団子くばる花見かな  あきオジ

振り返る笑顔もありし花見かな  あきオジ

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剛力は徒に見過ぎぬ山ざくら  蕪村

(ソメイヨシノではなく、山桜、寒緋桜には独特の懐かしさがありますね。)

銭買うて入るやよしのの山さくら  蕪村

(お茶代金などを麓で準備して山に入る習慣があったなど知りませんでした。)

花に暮れて我家遠き野道かな  蕪村

(今の時代、あれこれありますが、江戸時代、娯楽の数も限られていたでしょう、季節を楽しむことは楽しく、深いものだったのでしょうかね。そんな時代の匂いを感じます。)


寝て見ても空をふさぐ桜かな  あきオジ

2012-04-08 05:55:37 | 日記
新宿御苑は人がいっぱい
こんなに桜がさいている場所も珍しいですし
姿形が美しいですね。

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この暮らしどうにかなるか桜見る  あきオジ

ありがたい枝ぶりになるし桜かな   あきオジ

言葉なく手握りあう桜道  あきオジ

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静かなるかげを動かし客に茶をつぐ  放哉

花あはただしさの古き橋かかれり  放哉

あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める  放哉

(放哉の句の中でお気に入りの一句です。かすかに動きがある。そんな句が好きです。)

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素人でも、俳句を鑑賞するとき「何も響かない」ときもあれば「妙にたかぶった気分で」これがいい。そんなことを感じることがあります。それは、芭蕉であっても山頭火でそうです。

そのうち現代作家にも、そんな気分を感じたいですが、今は、遭遇する機会もありませんし、探しだすだけの根性が、ありませんね。賢い人のひねり過ぎた鬱陶しさが苦手なのです。

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桜散り何事もなきあたたかさ  あきオジ

2012-04-08 05:37:21 | 日記
新宿御苑の櫻です。
人もいっぱいでした。
でも、いい表情をしていますね。

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桜咲く庭広ければ空たかし  あきオジ

花見するなにもかもがありがたし  あきオジ

待ちわびし水面に映る桜かな  あきオジ

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花盛り山は日ごろの朝ぼらけ  芭蕉

(ときどき芭蕉のことを「換骨奪胎して再構成する」美意識ではないかと思うことがあります。美しいと思われるものをそのままにせず、それを再構成している。単なる写生ではないような気がします。その場の状況をそのままにすることなく、それを再構成すているのです。そうでもなければ、かくまで、美しさが深まらないのです。そんなことを知ろうとは思うのです。きっと、俳句を作る人はそんなことを考えているのでしょうね。)

春の夜は櫻に明けてしまひけり  芭蕉

(俳句を「写生」を基本とするというような教えはどこからきているのでしょうか、きっと、芭蕉の言葉にあるのでしょう。でも、それは芭蕉の句づくりの基本であるというようなものを言う人はいなかったのでしょうかね。俳句は構想であるなとと蕪村なら言うでしょうし、暮らしの匂いがない句は、生きた俳句にならない。そんなことを一茶なら言うかもしれません。極めた形式は崩れるしかありませんし、再生は形式の崩しから始まるのですね。踏襲は衰退です。そんなことを思うこのごろです。でも、門外漢がいことではありませんね。)

木のもとに汁もなますも桜かな  芭蕉

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