地震から11日目
やっと落ち着いてきました。
地震の際には、皆様にたいへんご心配をおかけしました。
メールやコメント、お電話、本当にありがとうございました。
とってもありがたく勇気付けられました。
私の住んでいる千葉県旭市は千葉県の中でも一番被害の多かった地域です。
津波が押し寄せて海沿いの家が大変な被害を受けました。
幸いにも我が家は海から2kmほど離れていますので、津波の直接の被害は受けずに済みました。
息子の友達の家は海沿いにあり、細い路地を車が流されてきたそうです。
家は床上浸水、胸のあたりまで水が来たそうです。
電話をかけた時は「畳をあげて片付けをしているよ!」としっかりとした声が返ってきました。
津波で亡くなった方もいらっしゃるので、無事でよかったとホッとしました。
旭市では波にさらわれたりして19日現在12名の方が亡くなり、3名の方が行方不明になっています。
地震と津波により家屋の全壊が339棟、半壊が164棟、一部損壊が1145棟です。
避難所に身を寄せている方も20日現在239名いらっしゃいます。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
1日も早く被災した方々が普段の生活に戻れることを願っています。
この地震の12時間前の11日午前2時30分 長女に次男が誕生しました。
10日の午後9時30分ごろから「ちょっと腰が痛いかも・・・」
長男の時は破水から始まったので、陣痛の感覚が違うらしく、本人も「陣痛だと思うけど、違うかも・・・」
時間を計ると8分くらいの間隔で腰の痛みがきているらしい。
病院へ電話すると、先生が「一度見てあげるからおいで・・・」
一応入院する支度をして寝ている孫は主人にみてもらって病院に向かいました。
午前0時過ぎに病院について先生の診察、「予定日(3月3日)も過ぎているので、入院して産みましょう。」
それからが早くて、あっという間に6分、2分間隔に・・・
「やばいかも~~~~!」と急いで分娩室に入ってすぐ破水、
そして1回いきんだだけで生まれてしまったそうです。
超が付くくらいの安産でした。
そして12時間後の午後2時46分私と次女と孫3人が病院から外に出た時に、
「東北地方太平洋沖地震」が起こりました。
ここは震度5強でしたが、その揺れは何分続いていたんでしょう。
経験したことの無い大きな揺れ、
周りのもの全てが不気味な音を立てて揺さぶられている恐怖の長い長い時間でした。
私は3人の孫を抱えて地面に座り、次女は長女と生まれたばかりの赤ちゃんを外に連れ出し、
いくらかおさまってから孫3人を車に乗せラジオをつけると津波の警報が・・・
防災無線でも繰り返し叫ばれていました。
病院は海からは離れているので、津波は大丈夫だろう・・・
とりあえず長女たちを院内に・・・
そこでまた大きな揺れ・・・
もう建物の中にはいられません。
3人のママと赤ちゃん、駐車場にベンチを置いて、冷えないように毛布をかけて座ります。
いくらか落ち着くと今度は連絡の取れていない家のほうが心配で、
看護士さんに長女の事をお願いして家に急ぎます。
途中信号は消え、ブロック塀は崩れ・・・
家に着いてまず目に飛び込んできたのは、義母が草取りをしている光景・・・
「うっそ~~~~!こんな時に・・・」
工場は地震直後にボイラーを止め、機械は自動停止・・・
家に入ると物が落ちていましたが、大きな被害は無し。
食器棚も扉が閉まっており、中のものは茶碗蒸しの蓋が1つ割れていただけ・・・
それと百均の鏡が1つ割れていました。
次女が「停電だし水も出ないから、とりあえず食べる物を買ってこよう」とすぐに近くのコンビニへ・・・
孫達のためのお菓子と水、おにぎりとパン、非常時の次女の手際の良さには感心しました。
ここで浜の方から来た方から津波の情報を聞きました。
「○○屋のところまで水が来ているよ。」
山梨生まれで、津波という言葉にピンと来なかった私ですが、
「本当に津波が来ているんだ」と現実を知らされました。
家に戻り、しまってあった石油ストーブを出し、家にあるありったけの懐中電灯を集め、夜に備えました。
次女家族も怖くてアパートにいられないとずっと車の中にいたようですが、
平屋の我が家に非難してきました。
夜は、何回も緊急地震速報が携帯から流れ、そのたびに孫を抱えて外に飛び出す。
何回そんなことを繰り返したでしょう・・・
その夜の星が妙にきれいにきらめいていたことが、今でも忘れられません。
地震の直後の生活と赤ちゃんと一緒の生活にもやっと慣れてきたので、
ちょっとづつUPしていきますね。
こんな時なので、みなさんにちょっぴり元気のおすそ分け・・・
この世に生を受けて1時間後のROちゃん。
ママの羊水でまだふやけたままの真っ白な手で、私の指をしっかり握ってくれました。
世界最大級の地震が起こった日に生まれた小さな命、
亡くなられた方の分まで命を大切にして生きていって欲しいと願うばぁばなのでした。
やっと落ち着いてきました。
地震の際には、皆様にたいへんご心配をおかけしました。
メールやコメント、お電話、本当にありがとうございました。
とってもありがたく勇気付けられました。
私の住んでいる千葉県旭市は千葉県の中でも一番被害の多かった地域です。
津波が押し寄せて海沿いの家が大変な被害を受けました。
幸いにも我が家は海から2kmほど離れていますので、津波の直接の被害は受けずに済みました。
息子の友達の家は海沿いにあり、細い路地を車が流されてきたそうです。
家は床上浸水、胸のあたりまで水が来たそうです。
電話をかけた時は「畳をあげて片付けをしているよ!」としっかりとした声が返ってきました。
津波で亡くなった方もいらっしゃるので、無事でよかったとホッとしました。
旭市では波にさらわれたりして19日現在12名の方が亡くなり、3名の方が行方不明になっています。
地震と津波により家屋の全壊が339棟、半壊が164棟、一部損壊が1145棟です。
避難所に身を寄せている方も20日現在239名いらっしゃいます。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
1日も早く被災した方々が普段の生活に戻れることを願っています。
この地震の12時間前の11日午前2時30分 長女に次男が誕生しました。
10日の午後9時30分ごろから「ちょっと腰が痛いかも・・・」
長男の時は破水から始まったので、陣痛の感覚が違うらしく、本人も「陣痛だと思うけど、違うかも・・・」
時間を計ると8分くらいの間隔で腰の痛みがきているらしい。
病院へ電話すると、先生が「一度見てあげるからおいで・・・」
一応入院する支度をして寝ている孫は主人にみてもらって病院に向かいました。
午前0時過ぎに病院について先生の診察、「予定日(3月3日)も過ぎているので、入院して産みましょう。」
それからが早くて、あっという間に6分、2分間隔に・・・
「やばいかも~~~~!」と急いで分娩室に入ってすぐ破水、
そして1回いきんだだけで生まれてしまったそうです。
超が付くくらいの安産でした。
そして12時間後の午後2時46分私と次女と孫3人が病院から外に出た時に、
「東北地方太平洋沖地震」が起こりました。
ここは震度5強でしたが、その揺れは何分続いていたんでしょう。
経験したことの無い大きな揺れ、
周りのもの全てが不気味な音を立てて揺さぶられている恐怖の長い長い時間でした。
私は3人の孫を抱えて地面に座り、次女は長女と生まれたばかりの赤ちゃんを外に連れ出し、
いくらかおさまってから孫3人を車に乗せラジオをつけると津波の警報が・・・
防災無線でも繰り返し叫ばれていました。
病院は海からは離れているので、津波は大丈夫だろう・・・
とりあえず長女たちを院内に・・・
そこでまた大きな揺れ・・・
もう建物の中にはいられません。
3人のママと赤ちゃん、駐車場にベンチを置いて、冷えないように毛布をかけて座ります。
いくらか落ち着くと今度は連絡の取れていない家のほうが心配で、
看護士さんに長女の事をお願いして家に急ぎます。
途中信号は消え、ブロック塀は崩れ・・・
家に着いてまず目に飛び込んできたのは、義母が草取りをしている光景・・・
「うっそ~~~~!こんな時に・・・」
工場は地震直後にボイラーを止め、機械は自動停止・・・
家に入ると物が落ちていましたが、大きな被害は無し。
食器棚も扉が閉まっており、中のものは茶碗蒸しの蓋が1つ割れていただけ・・・
それと百均の鏡が1つ割れていました。
次女が「停電だし水も出ないから、とりあえず食べる物を買ってこよう」とすぐに近くのコンビニへ・・・
孫達のためのお菓子と水、おにぎりとパン、非常時の次女の手際の良さには感心しました。
ここで浜の方から来た方から津波の情報を聞きました。
「○○屋のところまで水が来ているよ。」
山梨生まれで、津波という言葉にピンと来なかった私ですが、
「本当に津波が来ているんだ」と現実を知らされました。
家に戻り、しまってあった石油ストーブを出し、家にあるありったけの懐中電灯を集め、夜に備えました。
次女家族も怖くてアパートにいられないとずっと車の中にいたようですが、
平屋の我が家に非難してきました。
夜は、何回も緊急地震速報が携帯から流れ、そのたびに孫を抱えて外に飛び出す。
何回そんなことを繰り返したでしょう・・・
その夜の星が妙にきれいにきらめいていたことが、今でも忘れられません。
地震の直後の生活と赤ちゃんと一緒の生活にもやっと慣れてきたので、
ちょっとづつUPしていきますね。
こんな時なので、みなさんにちょっぴり元気のおすそ分け・・・
この世に生を受けて1時間後のROちゃん。
ママの羊水でまだふやけたままの真っ白な手で、私の指をしっかり握ってくれました。
世界最大級の地震が起こった日に生まれた小さな命、
亡くなられた方の分まで命を大切にして生きていって欲しいと願うばぁばなのでした。