高村薫の「新リア王」を,先週末(2006/1/14)に読了!。
ハードボイルドの金字塔と感じてしまったのはボクだけだろうか?。
55年体制を生きた老練政治家と仏家になった外腹の息子との対峙を軸に,時代や政治を問いながら,社会は人間の欲と嫉妬と憎悪の中に成立していて,それが今なお連綿と続いていることを物語った作品だ。こう紹介すると,何処がハードボイルドと言われてしまうかもしれないけど,読者に対する挑戦的とも言える難解な表現(文学的)が,逆にハードボイルドに思えてならないのだ。で,かつ,強烈に現政権を批判しまくってるその態度!,まさにHB!。(現政権誕生時に世論がニューリーダーとか騒いでいたとき,文壇で唯一臆面もなくそれを痛烈に批判しとった作家が高村女史であったことを記憶している!。あの小泉の「言葉」がキライと言ってた。)
このほか,面白かったのは,小説の時代設定が80年代の中頃で,ボクらの記憶にも残ってる政治スキャンダルや身近な政治家,当時読んでいた小説などもチョロっと出てきたり,はたまた,抜き差しならぬ父子の確執,男女の機微,ドブ板選挙,政治における権謀術数が織り込まれていてエンタメとしてもよかったし,読み手が仏教(禅)に造詣があればなおよし。
それと~,話はかわるけど,あのヒューザーのコジマ社長が相当程度「新リア王」を読んでいたのではと訝るのボクだけか?。
で,結論だけど,高村女史は実は「オトコ」となんじゃないかなぁ。こう思うボクはどうかしているかもしれんけど,処女作?の「黄金を抱いて飛べ」を読んだとき,書き手が女性であると微塵も想像することできなくて,しばらくして本人が女性であることを知ってスッゲー驚いたのだけれど(実はしばらく栗本薫と勘違いをしていた,笑えね~),その時の読了感となんら今回も変わらんところを考えると,書評で高村薫は変わったと言われても,ボクにはナンダカナーって感じなのだな。
しか~し,今でも,高村薫が女性であることが信じられん!。
でも,オモシロイ小説であるのは確かなのでした!。
ハードボイルドの金字塔と感じてしまったのはボクだけだろうか?。
55年体制を生きた老練政治家と仏家になった外腹の息子との対峙を軸に,時代や政治を問いながら,社会は人間の欲と嫉妬と憎悪の中に成立していて,それが今なお連綿と続いていることを物語った作品だ。こう紹介すると,何処がハードボイルドと言われてしまうかもしれないけど,読者に対する挑戦的とも言える難解な表現(文学的)が,逆にハードボイルドに思えてならないのだ。で,かつ,強烈に現政権を批判しまくってるその態度!,まさにHB!。(現政権誕生時に世論がニューリーダーとか騒いでいたとき,文壇で唯一臆面もなくそれを痛烈に批判しとった作家が高村女史であったことを記憶している!。あの小泉の「言葉」がキライと言ってた。)
このほか,面白かったのは,小説の時代設定が80年代の中頃で,ボクらの記憶にも残ってる政治スキャンダルや身近な政治家,当時読んでいた小説などもチョロっと出てきたり,はたまた,抜き差しならぬ父子の確執,男女の機微,ドブ板選挙,政治における権謀術数が織り込まれていてエンタメとしてもよかったし,読み手が仏教(禅)に造詣があればなおよし。
それと~,話はかわるけど,あのヒューザーのコジマ社長が相当程度「新リア王」を読んでいたのではと訝るのボクだけか?。
で,結論だけど,高村女史は実は「オトコ」となんじゃないかなぁ。こう思うボクはどうかしているかもしれんけど,処女作?の「黄金を抱いて飛べ」を読んだとき,書き手が女性であると微塵も想像することできなくて,しばらくして本人が女性であることを知ってスッゲー驚いたのだけれど(実はしばらく栗本薫と勘違いをしていた,笑えね~),その時の読了感となんら今回も変わらんところを考えると,書評で高村薫は変わったと言われても,ボクにはナンダカナーって感じなのだな。
しか~し,今でも,高村薫が女性であることが信じられん!。
でも,オモシロイ小説であるのは確かなのでした!。