【古代鍛冶族と私】
決戦日の数日前。デスクの隅に立てかけたスマホの着信音が響いた。画面に映し出された文字は、「山鹿市立図書館」。
「着信」をスライドさせると聞き覚えのある声が耳に届いた。この前、お世話になったKさんだった。Kさんは、過日の訪問時には見つからなかった「三玉」の由来や採石場の開発経緯について答えるために連絡をしてくれたのだった。
「三玉」の由来については『山鹿市史(下巻)』に、明治22年の合併時(蒲生村、久原村、上吉田村)の町村名選定理由の中に「〝久原村内元霊仙ニ、三玉山霊仙寺アルユエ、村民ノ申シ出二依リ、之ヲ名ク。”」の記載が見つかったことを教えてくれた。一方、三玉地区で採石所の開発が始まった経緯がわかるような資料は見つからなかったとのことだった。しかし、Kさんは、『新山鹿市史』には、現在の採石所から南東に約2km離れた「日の岡山」のふもとで太平洋戦争中まで銅鉱山があった記載を見つけたことを付け加えてくれた。また、『山鹿市史(下巻)』にも同様の記載があることを教えてくれた。そして、銅鉱山の記載は、どちらの資料にも「天目一箇神信仰(あめのまひとつのかみ)」の項で触れられていることを教えてくれた。採石所のHさんが、おっしゃっていた事は本当だったのだ。
『山鹿市史(下巻)』では、日本書紀第二神下(天孫降臨)の個所を引用して天目一箇神は鍛冶に関する神であることを説明している。そして、一ツ目神は、なが年銅精錬の火色を片目で見続けたために片眼となり、ふいごを踏み続けて一本足となり、一ツ目神社のある所には必ず銅鉱山があると伝えられていることを紹介している。つまり、一ツ目神を祀る薄野神社の創建時の1500年前には、既に、銅に精通した古代鍛冶族が存在していた可能性が極めて高いことを示唆しているのだ。おそらく、古代鍛冶族は、銅を含んだ岩石の探索と精錬をセットにした当時としては最高難度の高等技術を身につけた特殊集団であったに違いない。大陸伝来ではあるものの、彼らの留まることを知らない強い探究心がその技術を生み出し、そして古代とはいえ、それらが現在の科学技術に繋がる多くの礎を作ったのだと思うと深淵な気持ちになる。そして私は自分に言い聞かせる。果たして、私は、古代人に胸が張れるような強い探究心を持って仕事に励んでいるのかと。
決戦は年度末の土曜日に設定した。作戦のあらましはこうだ。
不動岩のふもとにある金毘羅神社を出発地として、登山道を登り不動岩を経て蒲生山の頂上に出る。そして尾根沿いを東進して「日の岡山」を通って下山し、蒲生ノ池を見学した後に「生目神社」を訪問するという計画だ。そして、最大の目的は、不動岩が何故あのような形になったのか、仮説でもいいので、それを裏付けるような地質学的な事象を見つけ出すことだった。それと、「三玉」は何を指しているのか、その手がかり探し出すことも大きな目的だった。もちろん、強い探究心を持って。
《参考文献》
山鹿市史編纂室 「第八章 民俗」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.619-621、p675
山鹿市『新補山鹿市史』平成16年 p.374
平尾良光「古代日本の青銅器の原料産地を訪ねて」『計測と制御』vol 28,No.8 p29-36
谷川健一『青銅の神の足跡』小学館ライブラリー 1995年