1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』19.三玉山霊仙寺(みたまやまりょうぜじ)

2022-10-23 20:12:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【三玉山霊仙寺(みたまやまりょうぜじ)】
山鹿市三玉校区は、旧三玉村を指していて、明治半ばに、周辺の上吉田村、久原村、蒲生村の三村が村名を新たに「三玉村」として合併誕生したことに由来する。それは、『山鹿市史(下巻)』の明治二十二年(1889年)の合併時の町村名選定理由の中に「〝久原村内元霊仙ニ、三玉山霊仙寺アルユエ、村民ノ申シ出二依リ、之ヲ名ク。”」の記載でわかる。
旧三玉村の合併三村のうち、上吉田村が震岳の東斜面とその麓の西側地域、蒲生村が蒲生池や不動岩がある東側地域、久原村がその中間の首石岩や一ツ目神社がある地域だ。そして、久原村の中には今でも霊仙(りょうぜ)と呼ばれている地区があり、そこには尋常小学校時代も含めると100年以上の歴史を誇る三玉小学校があり、霊仙地区はその昔からある程度開けていたことがわかる。また、「霊仙」という名の響きには、誰もが崇高で由緒正しい雰囲気を感じることだろう。

霊仙地区の中ほどには、昭和に立てられた古びた公民館があるが、その傍に霊仙寺跡と金色で刻銘された立派な記念碑が立っている。その記念碑には霊仙寺縁起が記されている。それによると、この霊仙寺は、菊池氏初代の菊池則隆によって創建され、平重盛が再興して国内七大伽藍の一つに数えられたが、戦国時代の佐々成政の時に焼失したと伝えられている。また、本尊は釈迦如来坐像をはじめ六体の尊像があり、門前馬場の跡、陀羅尼坂、仁王門の礎石、石体六地蔵などが出土し、豪壮な伽藍、広大な寺域を持った大寺院であったと伝えられ、現在の霊仙地区は霊仙寺の門前町だと言われている。

同様のことは、『山鹿市史』にも記載されている。しかし、三玉村の合併時に村民が村名選定理由に挙げた「三玉山霊仙寺アルユエ」の文言に含まれる三玉山あるいは三玉については、記載されていない。それは、『山鹿市史』が引用している明治に編纂された『山鹿郡誌』にも記載がないからである。

霊仙寺を創建したとされる菊池則隆は菊池氏初代の惣領で、延久二年(1070年)の平安時代の後期に太宰府の荘官として赴任した人物である。近年の研究では、太宰府長官職であった藤原氏と関係を深めて、その任を得た地元の土豪で、菊池の姓も以前から名乗っていたと考えられている。そのような則隆は、支配強化の一環とした外城の配置以外にも菊池川流域への影響力を強めるために寺社勧請も数多く行っている。深川の佐保川八幡宮、神来(おとど)の貴船神社、旭志弁利の円通寺などがそれである。

佐保川八幡宮は祭神を応神天皇とし、菊池川右岸の菊池市深川に創建されているが、神社の名になっていのは佐保川だ。これと同じ名の川が奈良盆地にあり、この川は、奈良盆地の北部に8世紀に遷都された平城京を南北に貫流し、大和川となって大阪湾に注いでいる。貴船神社は水の神を祀る全国二千社を数える神社の一つで、本社も同様の名の貴船神社で、この神社は京都市左京区の加茂川支流の貴船川沿いにある。
円通寺は天長四年(824年)山城の国(京都府)に建てられたが、時を経て衰微したこの寺を、則隆が永久ニ年(1070年)に勅許を得て合志川の上流の旭志弁利に造営したとされている。
いずれの寺社も奈良・京都に関連していて、菊池氏初代則隆は寺社の造営においては、自身の権威高揚のためか、当時の朝廷と縁を深める若しくは模倣するような目的があったのではないかと思われる。
であるならば、則隆が創建したとされる霊仙寺も、奈良・京都に関連のある仏閣と類推するのは、方向性として大きく逸れてはいないだろう。


しかし、私が調べた範囲では、朝廷と結びつくような霊仙寺は見つからなかった。ただ、大分県の国東半島には、養老二年(718年)に仁聞が開基したとされる霊仙寺(れいせんじ)があるほか、鈴鹿山脈北方の滋賀県と岐阜県との県境には霊仙山(標高1083.5m)があり、かつて山頂に霊仙寺(りょうぜんじ)が建立されていたという。また、この山は、息長氏(おきながうじ)を祖とした近江国出身とされる平安時代前期の高僧「霊仙」に由来するらしいが、延暦二十三年(804年)に第十八次遣唐使として入唐してからは一度も本国には戻ることができず、没したと伝えられている。
残念ながら菊池則隆のゆかりに頼った「三玉山霊仙寺」の探索は暗礁に乗り上げてしまった。

では、霊仙寺を再興したとされる平重盛の線ではどうだろうか。

平重盛は保延四年(1138年)生まれの平清盛の嫡男で、平安時代末期とは言え、官位として正二位内大臣にまで出世した大武将だ。往時の国のほぼトップが造営に関わったとすれば、国の威信がかかっていたはずで、国内七大伽藍の一つに数えられたと言うのは当然のことだろう。しかし、なぜ、この地に大造営を行ったかについてはよくわからない。確かに、菊池一族は第4代の経宗の時代(天仁二年(1109年)頃)は、鳥羽院の武者所として出仕していた。しかし、第6代の隆直の時代には、平家の入宋貿易拡大による九州支配に反発して、重盛の死去した翌年(治承四年1180年)に阿蘇惟安、木原盛実とともに太宰府を襲撃しているのだ。重盛の死去前までは極めて良好な関係だったのかもしれない。いや、そうではなく、やはり全く逆であったと考えるべきかもしれない。

重盛の父である平清盛は、種々の伝えや資料から類推すると、傲慢で激昂しやすい性格であったことが伺える。また、清盛は保延三年(1137年)に肥後守に任ぜられ、仁安二年(1167年)に武将としては初めての行政官トップの太政大臣となっており、九州支配を目論んでいたようなのだ。そして、武者所の菊池氏などは、地方の木っ端豪族と見下しており、九州一円に対する権勢誇示のため、菊池氏初代則隆が創建したとされる神聖かつ由緒ある寺を、ある意味乗っ取るようなかたちで嫡男の重盛に命じて霊仙寺を再興させたと考えたほうが自然かもしれない。

平家に背いた第6代隆直らは、平家の家人の平貞能(さだよし)の討伐に対し、約三年の抵抗を見せて降伏したのち、壇ノ浦の戦いでは平家方につき、源義経により殺されたという。そして、菊池一族は平安時代末期に平家寄りであったがために、これが鎌倉時代の反幕活動に繋がっている。

平家のラインからも探索したが、残念ながら、上記のような軍記物語の域は超えられず、三玉山霊仙寺につながるものは見つからなかった。ただ、この資料探索によって、当時の菊池川流域の人々が平家贔屓になったことは間違いないとう感触を得ることができた。そして、源氏に討たれた第6代隆直や、鎌倉時代の菊池一族の不遇の時期を思えば、流域の人々の心に、自ずと平家一門に対する親しみや哀悼の意が湧いてくるのは当然であろう。

戦国時代の末期、豊富秀吉の九州征伐ののち、肥後領主に任ぜられた佐々政成の強引な地検に反発した肥後国衆は戦いを起こした。(国衆一揆、天正十五1587年)。この戦闘のなか、霊仙寺は成政により焼き払われた。歴史にタラレバを持ち込むのは禁じ手だが、もし成政や、後の小西行長による県南地域での寺社に対する焼き討ちが無ければ、県内の文化遺産はもっと豊富だったはずで、私如きが、三玉山霊仙寺について頭を抱える必要はなかったであろう。
また、三玉の霊仙地区は、時の平家、国内三大忠臣として人気を誇る小松内府平重盛が建てた仏閣の所在地として、いつの時代も高い注目を浴びていたことだろう。

しかし、焼き払われた事実があったからこそ、私は菊池川流域の歴史について学ぶ機会を得たことに感謝すべきと思うと同時に、そのような由緒ある仏閣が焼き払われたあとの民心はどうであっただろうかという疑問が湧いてきた。
国衆一揆で、周辺の国衆はほぼ殲滅し、地域に平和が訪れたとはいえ荒廃しきった菊池川流域に、寺社復興の力はもはや無かったであろう。しかし、民衆にはいつも復興への強い願いとともに信仰の心が現在にも引き継がれているように、当時は今以上の篤い信仰心が残っていたと考えられる。

してみると、江戸時代になっても、この地において平家を敬い信仰の対象としていた人物がいてもおかしくはない。むしろ、自然であると考えるべきではなかろうか。

霊仙地区から東へ500mの福原集落に「生目神社」がある。本社は、宮崎市の生目地区の「生目神社」で、祭神は藤原(平)景清公が祀られている。一説では、平家の勇猛な武将であった景清公が、敵の源氏に捕われたとき、源氏の総大将・源頼朝公にその武勇を惜しまれ宮崎へと封じられたが、仇である源氏の繁栄を見たくないと両眼をえぐって空に投げ捨てこの場所に落ちたという。
そして、この神社に月詣として通っていた佐治兵衛が、江戸時代の終わり頃に当地に「生目神社」を勧請している。しかも、御神体としては申し分ない三頭状の不動岩と同じ「礫岩」に祀ったのだ。

ひょっとすると、この高まりにある三頭状の「礫岩」は、その昔は霊仙寺の飛地境内で、霊仙寺の焼失とともに放置されていた所を、佐治兵衛が聖地として復活させたのではないだろうかという思いに至る。勧請に当たって、周辺村民の反対はなく、むしろ歓迎の声さえ上がったかもしれない。「生目神社」が元は「三玉山」だったのかもしれない。
そうであれば、明治期においても当地が、依然として三玉山と呼ばれていた可能性があり、明治二十二年(1889年)の合併時の町村名選定理由の「〝久原村内元霊仙ニ、三玉山霊仙寺アルユエ、村民ノ申シ出二依リ、之ヲ名ク。”」となったのは自然な成り行きと言えはしないだろうか。しかし、「霊仙寺」の名の由来については依然としてわからない。

なお、昭和六十二年(1988年)発行の『ふるさと山鹿』によれば、霊仙寺は焼き払われた跡地に草庵が建てられ、大正の末期までは僧侶も住み、細川家の泰勝寺の支配下であったらしいが、昭和四十七年(1972年)に霊仙公民館建設時に取りこわされたとのことである。




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