1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』〜7. 一ツ目神社〜

2022-10-10 15:31:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【一ツ目神社】
不動岩の首が吹き飛んできた「首石岩」の近くには、通称「一ツ目神社」と呼ばれる神社がある。社記に書かれた伝承によれば、不動岩と彦岳権現の首引きの大綱の端が、この地で勝負の行方を案じていた母神の目に当たり一眼を失ったので、その母神を祀り「一ツ目神社」と呼ばれるようになったと言う。また、この神社の裏には、湧水量が毎分2tと言われる「一ツ目水源公園」があって、ここは「熊本水百選」にも選ばれている。いにしえの人々は、この清らかな湧水を見て実子を不意に失った母神の悲しみの涙を想起していたのかもしれない。

さて、この「一ツ目神社」、正式には「薄野神社」という名で、今から1500年程前の継体天皇四年(510年)11月4日に、高天山(震岳)で八神殿を祀ったとされる若山連(わかやまむらじ)の後裔の吉田氏が斎き祀ったとされる県内屈指の古社なのだ。そして、祭神は鍛冶の神とされる天目一箇神(あめのまひとつのかみ)だ。

私がこのことを知ったのは、参道沿いの桜が満開となっているうららかな春の午後だった。その日は、とある地区で発生した地盤の陥没事案の相談で山鹿市を訪れていて、そのついでに一目この神社を見ておこうと立ち寄っただけのことだったが、この事実には大きな衝撃を受けた。鍛冶の神から、すぐさま「砂鉄」が連想され、「たたら製鉄」、次いで名刀「同田貫(どうだぬき)」、そして順番が前後するが「菊池一族の繁栄(千本槍)」、さらに近代に至っての「軍都熊本」へと思考が一気に展開していったからだ。しかし、そういった妄想を膨らませる前に、もう一度冷静に考えるべきことがあるのではないかと自分に言い聞かせた。

「一ツ目神社」の近くには「変はんれい岩」を対象とした採石所がいくつかある。私は以前の仕事で他県の採石所の調査に携わった中で、採石所の始まりが有用鉱物の採取である事を経験的に知っていた。先ずは、そこをヒントに調べ直すべきではないのかと、そう思ったのだ。おりしも、先日は震岳の西側山麓で「滑石」が採掘されていた情報を得ていて、また、今いる「一ツ目神社」の目と鼻の先にある採石所は、数年前に採掘跡の残壁の安定性についての相談を受けていた所だ。聞きに行けばいい。

連絡も入れず採石所に行くと、幸運にも、当時、丁寧な物腰で対応してくれた女性経営者のHさんが事務所内でお一人だった。。Hさんは、私のことをよく憶えていてくれて、過日の一件について、あらためて丁寧なお礼の言葉を口にして下さった。にもかかわらず、急いていた私は挨拶もそこそこに、ここへ来た経緯を簡単に説明した。Hさんはここの二代目経営者で、先代は天草で採石を営みながら、ここでも「砕石や石材」として良質な岩石が採れることを見込んで開発を始めたとのことだった。残念ながら有用鉱物の採取がこちらの始まりではなかったが、Hさんは、私にとって極めて重要な情報を提供してくれた。先代から聞いた話しとして、この辺りではその昔「銅」が採掘されていたというのだ。

私は金属資源に目がない。前職の主な仕事は、国内外の非鉄金属資源の探査だった。故郷の熊本の資源についてもそれなりの知識を持っていると自負していた。確かに、地質的環境からみてこの地域に「銅鉱床」が形成されたとしても不思議はない。しかし、経済的価値を得るだけの品位と鉱量がなければ鉱山開発には至らないのだ。私はこの地域で行われていたとされる銅採掘については全く知らなかった。

私は四駆の軽自動車に乗り込みキーを差し込んだ。このまま、会社へ戻るか、それとも図書館へ向かうか。エンジンを始動させ、ギアをローに入れるとクラッチをつないだ。車が向かった先は図書館だった。Hさんの話しを確かめる必要があった。Hさんは、図書館に行けば何かわかるかもしれないと言っていた。


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