1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』14.日の岡山

2022-10-17 21:09:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【日の岡山】
不動岩が、奇岩と呼ばれるような独特の形になった理由については、現在のところ残念ながら仮説すら提示できない。しかし、「謎の微細突起物」を採取した直後は、後輩のN先生に連絡が取れて分析してもらえさえすれば、きっと何かが分かるだろうと期待に胸が膨らんだのだった。そんな興奮を抱えて歩いているうちに、気がつくと蒲生山の頂上にあっけなく達していた。その場所は頂上であることを記した標識板がなければ素通りしてしまいそうな所だったが、そこから樹木の生い茂った尾根沿いをしばらく進むと唐突に目の前が開けて絶景を存分に味わうことができた。しばらく眺望を楽しんだのち、私は踵を返すと、今度は尾根沿いの南東方向のルートを選択して日の岡山(312.8m)を目指して走り出した。

日の岡山については、「首引き」伝説に勝るとも劣らない、県北地域では誰もが知っている「米原(よなばる)長者」伝説の中にその名の由来が説明されている。

その昔、菊鹿町の米原に大変な勢力を持った米原長者がいて、その長者は、田底三千町をはじめ山鹿の茂賀の浦までを含めた五千町の田植えを毎年一日で終わらせることを何よりの自慢としていた。しかし、ある年のこと、田植えが終わらないうちに日は西に傾き暗くなってきた。そこで、米原長者は持っていた金の扇で太陽を招き返して田植えを続行させたが、それでも日没になってしまい田植えは終わらなかった。ついに、長者は、倉の中から油樽三千個を持ち出して日の岡山の頂上から降り注ぐと火を放った。炎はたちまち火柱となって周囲を照らし、その明かりでどうにか田植えを終わらせた。しかし、その晩のこと、田植えが無事に終わったあとの宴の最中に、日の岡山から長者の屋敷に火の玉が飛んできて、屋敷や倉は全て焼け落ちてしまった。これから、日の岡山は焦土となって木は育たず火の岡山と云うようになった。また、屋敷跡からは焼けた米が出てくると云う。太陽を招き返したことで天罰がくだり長者は没落したと言われている。

また、この伝説には、「石」が深く関わっている前段としての物語があり、長者が富豪になれた最初のできごとが伝えられている。

その昔、肥後国菊池郡の山の中に、村人からも馬鹿にされるような貧しい男が一人で暮らしていた。ところが、あるときのこと、京の都の身分の高いお姫様が嫁いできた。聞けば、清水寺の観音様が夢枕にあらわれ、その男に嫁ぐようにお告げがあったとのこと。しかし、あまりの貧しさに驚いたお姫様は、男に小判三枚を渡して買い物に行かせた。ところが、その道中、鴨を見つけた男は小判三枚を投げつけて小判を失くしてしまった。それを聞いたお姫様は大そう呆れ悔やんだが、男は金色に光るものだったら裏山の炭焼き窯にたくさん落ちていると言った。そして二人でそこに行くと、確かに金色の石が落ちていて、それを山のように拾い集めて大金持ちになったという話しだ。

この大金持ちになるきっかけを作った金色の石、誰でも気になるところだ。

日の岡山のふもとには、戦後に廃坑となった銅鉱山があったことが『山鹿市史(下巻)』に記載されている。この鉱山についての詳しい資料は、まだ入手できていないが、1945年3月の戦争末期に軍需省地下資源調査所山鹿分室が設立されていたところからみても、ある程度の銅鉱石の産出があったことが推察される。そして、その銅鉱石には、当然、銅を含んだ鉱物が含まれているのだが、銅を含む鉱物として最もポピュラーに産出する鉱物は「黄銅鉱」という鉱物で、これが、まさに「金色」に光って見えるのだ。
九州北部地域では、弥生時代の中期から末期の遺跡からおびただしい数の青銅器が発見され、特に、佐賀県の吉野ヶ里遺跡では青銅器の鋳型が多数発見されたことは記憶に新しい。当時の2〜3世紀の青銅器の原料は主に中国からの輸入に頼っていたとされるが、7〜8世紀頃には仏教の伝来によって始まった仏閣造営に伴って銅の需要増大があったのではないだろうか。この頃には銅を含んだ岩石を探索する技術も進んでいたに違いない。

観音様のお告げでやってきたというお姫様は、実は、現代でいうところのハニートラップ的産業スパイで、これによって富を得た男が実在したと考えるのも一興ではないだろうか。

一方で、この「米原(よなばる)長者」伝説の背景については、学術研究の成果から導かれた秀逸な考察があるので紹介しておこうと思う。

菊鹿町の米原地区に古代山城としての鞠智城跡があり、城跡の発掘調査は、7世紀から10世紀にかけての古城の変遷を明らかにしている。その中で、多数の建物が築造されていることが確認され、この建物で火災が起こり炭化した米が多量に出土していることが報告されている。また、文献史学の成果として12世紀には、在地領主の土地所有が成立していた可能性が指摘されていて、地名としての「米原」の成立は14世紀後半以前としている。

さらに、天文学の成果として「太陽が後戻りした」との表現は、「日食」と直感した天文学者が計算した結果、1061年6月20日の田植え時期に符号する日食が見つかり、しかも太陽の欠け始めは午後2時57分で、その2時間10分後に元通りになった。そして、午後4時7分が太陽の79%が欠けたピークであった。

このように、「米原長者」伝説は、その物語が成立する背景を持ちながら歴史的事実も確認できる点において、極めて価値の高い民間伝承だ。

日本には、全国各地に様々な伝説や言い伝えがあると思う。まして、足元の郷土にもまだ知らない言い伝えがあるのかもしれない。ひょっとすると、それは何気ない地名となって化石のようにヒッソリと発掘を待っているのかもしれない。
そんなことを考えながら、日の岡山の頂上に立った。いよいよ、「三玉」のことが私の中で大きくなりつつあった。


日の岡山



《参考文献》
金属資源開発調査グループ「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷 歴史シリーズ-銅(2)-」『金属資源レポート』石油天然ガス・金属鉱物資源機構調査部 編 2005年 350号 p.434-454
西住欣一郎「菊池城跡の最新の調査成果について」『菊池川がはぐくんだ歴史と文化』熊本歴史学研究会 2018年 p.122-147
吉井守正「九州地域地質センターの未公表資料が語る戦中戦後史」『地質ニュース』426号 p.42-48 1990年
堀秀道『楽しい鉱物図鑑』草思社 1990年
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「米原長者どんの話」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年
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