【三玉山久慶院縁起】
本澄寺の住職がコピー編纂した吉田孝祐氏が記した『舊山鹿郡誌』には、時期が異なる二つの序があった。一つは昭和七年(1932年)、もう一つは昭和二十六年(1951年)に記されている。全文を紹介したいところだが、かいつまんで現代文調で記せば以下の通りである。先ずは昭和七年の序文だ。
歳月の推移によって、故郷の由緒深き往古の社寺史跡は荒廃し、僻地には伝説や史跡が残っているものの、町中においては開発が進み、昔の面影を偲ぶことが困難になりつつある。これを深く惜しみ憂いており、遠き昔の史跡のことを、永久に伝え偲ばれることを願って、長老に聴き、古刹を訪ね、遺跡を探索し、古書を漁って、粗雑ながらこの一冊を書き上げた。由緒深き我が郷土史を代々子孫に伝えられ、この一冊が参考になれば幸甚である。また、追って書きとして、本書は二冊作り、一つは手元に、一つは叔父の吉田重次氏(山鹿市在住)に送るとあった。
一方、昭和二十六年の序文は次の通りだ。
右の書を記した後、志を抱き上京して八年が過ぎ、次は希望を大陸に見出して昭和十五年に満州に渡った。その際、書類の一切を在熊の父に託したが、昭和二十年七月一日の米空襲によってことごとく灰に帰した。昭和二十二年三月六日に大連より引き揚げて、その話を聞き、山鹿市の叔父より前著『山鹿郡誌』を借りて、これにさらに補筆を加えて作ったのが本書である。追って書きには、作成においては山鹿旧語伝記(父の筆写本があったが焼失)を主体として、熊本県史、鹿本郡史、及び神社寺院その他の実地調査によるとあった。また、本書は三部作成したとあった。
今、私の手元にあるのは、この昭和二十六年に作成された三冊うちの一冊をコピー複写したものである。
「霊仙寺の謂」は次の一文で始まる。
此寺は往時大寺にして今霊仙村は殆ど其寺内也と言う。門前馬場の跡、陀羅尼坂、仁王門台石等今尚残存せり。『三玉山久慶院縁起』次に記す。
手元には本文のコピーがあるが、以下二ページに渡る記述は、この『三玉山久慶院縁起』の写しなのだ。古文書の写しで、しかも、行書と草書の中間的な文字で全文解読は困難なため、要所を抜粋して紹介する。
この『縁起』の出だしは、第十二代景行天皇の熊襲征伐の話しから始まり、これまで紹介してきたものと同様の震岳の由来が記してある。そして、天皇は震岳での勝利の後、震岳の麓の布都に暫く滞在していたところ、東の空に五色の瑞雲(虹色に輝く彩雲と思われる)が現れるのをご覧になる。不思議に思った天皇はそこに侍臣を差し向けた。侍臣たちは、そこで珍しい草花や高木(奇花奇草喬木)を見つけ、その土地が崇高で、景気佳絶仙郷とも言う群幽な所であったので、さらに調査を行い三つの玉を得たので、それを天皇に献上したところ、「霊地なるかな」と仰せになった。天皇はその玉を土着の者に下賜したのち、その者達が徳に思い、天皇の遥拝所となる登壇を設けて春秋に祭りを行った。しかし、玉はいつの間にか失われて今は無くなってしまった。その後、数世代を経て慶雲の時代に入って、この地に高僧の行基が来た。行基はこの地に暫く留まり、霊地なればということで一つの寺院を建立した。そして、この寺を、三つの玉が出て瑞雲が登った所にちなみ、また年号が慶雲ということで「三玉山久慶院」と名付けた。行基の一刀三礼によって彫られた釈迦牟尼佛が本尊となり、一時は大変な隆盛を見せたが次第に衰え、その後、菊池初代則孝によって再興されたのち、さらに寿永の頃は、小松内府重盛の造営に伴った繁昌の寺院として当国七大伽藍と言われた。文明の頃に入って、第二十一代菊池重朝祖先の建立した寺と田地の寄付を持って十二院の末寺を置いた際、霊地と仙郷に因み、「本覚山霊仙寺」と変更した。
この後については、天正年間における島津家と隈部一族との壮絶な争いのことが具体的に記されている。そして、当地がその主戦場となって島津軍が撤退の際に霊仙寺を焼払い、この時に、宝物や旧記がことごとく烏有に帰したと記載されている。また、天正十五年の佐々成政と隈部家の交戦のときも焼失があったとされている。その後は、長らく荒廃が及んだ所に、釈迦院の別峯和尚が訪れてこれを嘆き、細川藩に願い出て一庵を建立して僅かにその跡が残っている、と締め括られている。
《参考文献》
吉田孝祐『舊山鹿郡誌』昭和26年 園田匡身(本澄寺住職)昭和60年複写製本
吉田孝祐『舊山鹿郡誌』昭和26年 園田匡身(本澄寺住職)昭和60年複写製本
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