【熊本県立図書館】
不動岩に登った翌日は、前日と打って変わって雨模様だった。私は朝から県立図書館へ足を運んだ。コロナ対策の一環で、入口のエントランスで連絡先を記入すると2階の閲覧室へ向かった。入口横のトイレに目がいった。どうでもいいことだが、高校生のとき、このトイレで文字酔いして吐いたことを思い出していた。
図書館に行った理由は、もう一度『山鹿市史』を閲覧して貸出を試みることだった。それから、「生目神社」のことが気がかりだったので、山鹿の神社についてもっと踏み込んで調べること、そしてナニヨリも、こういう行動が時と場合によって予想外の成果を得ることがあるかもしれないという期待があったからだ。
郷土に関連する書籍類は、カウンター沿いの奥の書棚にその一画が設けられていた。県内の史跡や文化、自然に関わる様々な書籍があり、その中に『山鹿市史』は直ぐに見つかった。しかし、全体として見た場合、郷土の関連の書籍数としては期待したほどの冊数が揃っていないように思えた。カウンターに行きそのことを尋ねると、3階の第2閲覧室を勧められた。ただし、3階の資料は貸出できないことと、バッグ類の持込みもできないことを告げられたのだった。初めての利用者であることがバレバレで少し恥ずかしくなったが、早速、3階へ上がった。
2階に戻ったときは既に4時を回っていた。3階の閲覧室には膨大な郷土資料が所蔵されていて、熊本の地名辞典や在野の郷土歴史家が記した手書きものの複写資料や、また、真新しい一般書籍風ではあるものの発刊部数が少ないために貸出できない山鹿・菊池地方の歴史について書かれた良書があった。それらを片っ端から抜き出してきて机に平積みし、ページをめくり必要箇所に付箋をつけコピーをお願いしたり孫引きしたりメモを取っていたら、あっという間に夕刻になったのだ。
「生目神社」につていては、創建以前がどうであったかわかるような資料を見つけることはできなかった。しかし、他のさまざまな郷土資料に目を通して明確にわかったことがあった。
それは、これらを記した人々の、地域への深い愛着と地域の歴史やルーツについて知りたいという強い思いだ。それに加えて、知り得たことを人々に伝えなければならないという彼らの使命感だ。
明治の初め頃に書かれた「山鹿郡誌」の原本である古文書を見たときだった。それは、明治八年の県の命によって各村から提出された資料を徳丸氏が取りまとめたものであるが、私が見た資料は完成前の草稿資料と思われるもので、細かい文字による訂正や朱書、さらには付箋を用いた補筆もあった。その中には、正確な記録を残すための努力を伺わせるものだけでなく、その地名の由来についての独自考察や解釈が記載されたものがあった。今から約150年前の賢者でさえも地名の由来を明らかにすることは容易なことではなかったのだ。
2階に戻り貸出カードの手続きを行い、『山鹿市史』の三冊を借りた。それらをトートバッグに入れて担いだ。三冊の重みがズシリと肩に食い込んだ。
《参考文献》
徳丸秋⬜︎『山鹿郡誌』徳丸家文書 1878年(明治11年)
山鹿市史編纂室 『山鹿市史 上巻、下巻、別巻』 山鹿市 昭和60年3月
熊本県立図書館webサイト『https://www2.library.pref.kumamoto.jp/』
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