【玉名地方の景行天皇伝説】
〔姫ヶ浦(玉名郡長洲町姫ヶ浦)〕
日向御刀媛(ひゅうがのみはかしひめ)が11人の女官とともに景行天皇を追って長緒浜(ながすのはま)に着きましたが、すでに景行天皇が去った後と知って力尽き、11人の女官と共に入水したことにちなんで姫ヶ浦となったと伝えられています。
『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2年
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
〔十二石神社(玉名郡長洲町腹赤新町)〕
有明海に身を投じた御刀媛とお付きの11人の女官は、亡くなったあと石になられたといわれ、この石を一か所に集めて御魂を勧請して祀ったのが十二石神社とされています。
『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2年
〔名石神社(めいしじんじゃ)(玉名郡長洲町上中洲)〕
御刀媛と11人の女官が入水して石になられ、その十二石を御神体(磐座(いわくら))として祀ったのが名石神社(女石宮:めいしぐう)の起源とされています。
女石宮はもともと名石浜の海辺で御刀媛が石となった大きな岩そのもののを御神体として祀られていました。しかし、のちに臨海工業用地として埋め立てられることになり、昭和47年(1972年)、氏子の要望によって現在の名石神社の神殿の横に移されました。
なお、御神体の岩は、観察したところ阿蘇火砕流の「溶結凝灰岩」です。
『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2年
名石神社の御神体の磐座
〔腹赤(はらか)(玉名郡長洲町腹赤)〕
「肥後国風土記逸文」に、景行天皇が九州巡幸の折、長洲の漁師の朝勝見(あさかつみ)が釣った魚を景行天皇に献上しました。腹赤という地名は、その魚が大変美味しく景行天皇が名付けた「爾陪魚(にべうお)」という魚の腹が赤かったことに因むと言われています。また、奈良時代の第45代聖武天皇の天平15年(743年)より宮中の元旦の節会(宴会)に「腹赤の贄(にえ)」を献上することになりました。
秋本吉郎 『風土記 日本古典文學大系2』岩波書店 1958年
『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53年
『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2年
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
〔供御の池(くごのいけ)(玉名郡長洲町腹赤)〕
腹赤の贄として献上する魚を、この冷たい泉の湧く池に活けて、今でいう冷凍の役目をして太宰府を通じ、京の都に送ったと言われています。
『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2年
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
〔御腰の石(玉名郡長洲町腹赤)〕
景行天皇が腹赤の浜においでのときに腰をかけた石と言われています。
『名石神社史跡めぐり 研修会資料』名石神社 令和2年
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
〔玉名大神宮(玉名市玉名)〕
玉名大神宮の案内板によれば、
「玉名大神宮の「家系録」に景行天皇が熊襲(南九州の民)征伐の途中『玉杵名邑(たまなきむら)』に来た時、土蜘蛛津頬(豪族の長)が抵抗しました。景行天皇は天照大神を祀って拝み、お祈りをすると、玉のような小石が落下して土蜘蛛津頬を退治しました。この小石を神の霊として尊び、祀りました。このことから大神宮を遥拝宮ともいいます。」とあります。
周辺は「元玉名」と呼ばれ、玉名の地名の由来である「玉杵名」の地とされています。天照大神、景行天皇、阿蘇の4神、玉依姫(たまよりひめ)とその両親である菊池将監則隆夫妻を祭ってあります。日本書紀には、景行天皇が九州遠征の時に玉杵名の土蜘蛛を討伐した記事が書いてありますが、社伝によると、その時地元勢力の中尾玉守が天皇軍に味方し、その功績により玉名大神宮の宮司になったと伝えられています。
玉名市webサイトhttps://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/405/2064.html
『玉名大神宮』案内板 玉杵名の里づくり委員会
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
玉名大神宮
〔疋野神社(玉名市立願寺)〕
疋野神社は平安時代の『延喜式』にも記載されている「式内社」で極めて由緒正しい神社です。社伝によれば景行天皇が九州巡幸の際は疋野神社で鎮祭をとりおこなったとされています。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
疋野神社webサイトhttps://www.hikino-jinja.jp/#top
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