1969/04/09に生まれて

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『景行天皇伝説を巡る冒険』5.葦北•八代地方の景行天皇伝説

2022-11-14 20:45:00 | 景行天皇の記録
【葦北・八代地方の景行天皇伝説】
〔火の国と不知火〕
景行天皇18年5月 葦北より出帆されて日が暮れてしまい、夜の暗やみで岸に着くことができなかくなりました。遠くに火の光が見え着岸すると、そこは八代県(やつしろのあがた)の豊村(とよのむら)でした。天皇は、その火の光りについてお尋ねになりましたが、火の持ち主を見つけることができず、人の燃やす火ではないことがわかったのでその国を「火の国(ひのくに)」と名付けました。また、以来、このあるじ知らずの火を「不知火」と呼ぶようになりました。
『日本書紀』
『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53年

〔津奈木(葦北郡津奈木町)〕
景行天皇が熊襲攻略の帰途、葦北から船出した時の港が当地で、そに時に船を繋いだため「つなぎ」と称したことにちなむとする伝承があります。
また、「大泊(おおど)」「仮泊(かうど)」「泊(とまり)」「舟隠(ふねかくし)」「京泊(きょうどまり)」などの地名は、すべて景行天皇の御船をおつなぎになったことと関係があるといわれいます。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
岡松壮『わが町津奈木』昭和51年

〔神田(じんで)の神石(葦北郡津奈木町合串(えごし))〕
合串には景行天皇が腰掛けられたとされる「神田の神石」と呼ばれる牛の頭に似た石があり、この石に登ると腹が痛くなるという言い伝えがあります。このとき里人たちが近くにあった田からお米を献上したことから「神田」となったと伝えられています。また、この地にあった景行天皇を祭神とした天子宮は、明和2年(1765年)に平国に移されました。
岡松壮『わが町津奈木』昭和51年
六車茂一郎翁遺稿『津奈木村郷土誌』熊本県葦北郡津奈木村 昭和11年
『広報つなぎ vol.622』津奈木町 2017年

〔湯の児温泉(水俣市湯の児)〕
湯の児温泉の由来については、景行天皇が九州巡幸の折、海岸に自然に湧き出るぬるま湯を発見して「これはまだ湯の子だ」と仰られた伝承があります。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年

〔天子宮(葦北郡芦北町田浦宮浦地区)〕
景行天皇の九州巡幸の船泊跡地と伝えられています。天子宮(てんしぐう)の祭神は景行天皇です。由緒によれば、この地に上陸された場所に、後にお宮を建てたられたので宮浦の名前が起こったとされています。
このほかにも、八代・葦北地域には、景行天皇を祀る神社や天子宮と呼ばれる神社があります。津奈木町平国の天子宮(平国神社)、芦北町湯浦町天子宮(栫より移す)、同町道川内の天子宮(道川内神社(みちがわち))、同町乙千屋の天子宮(乙千屋神社(おとじや))、八代市福本本町の天子宮(少彦名命神社)です。
道川内の天子宮には、化石を含んだ石灰岩が境内の端に祀られているのが印象的です。また、乙千屋の天子宮でも本殿とは別に玉石が祀られている祠があります。
津奈木町誌編集委員会『津奈木町誌 上巻』津奈木町 平成5年
『肥後國誌』青潮社 昭和46年

芦北町乙千屋の天子宮(乙千屋神社(おとじや))

芦北町田浦宮浦地区の天子宮

〔御立岬(葦北郡芦北町田浦)〕
景行天皇が田浦の入江からお発ち(お立ち)になったところから、御立岬と呼ばれるようになったという言い伝えがあります。
『薩摩街道さんさくマップ』鹿児島県
https://www.pref.kagoshima.jp/am01/chiiki/hokusatsu/chiiki/documents/64757_20180315150556-1.pdf

〔日奈久(八代市日奈久)〕
「肥前国風土記」には「纏向の日代の宮に御宇しめしし大足彦の天皇(景行天皇)、球磨贈於を誅ひて、筑紫の国を巡狩しし時、葦北の火流の浦より発船して、火の国に幸しき」とあり、この火流の浦(ひながれのうら)が日奈久海岸に比定されています。
秋本吉郎 『風土記 日本古典文學大系2』岩波書店 1958年
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年

〔水島(八代市水島)〕
葦北の火流浦(日奈久海岸)より船出して、八代海の小島にたどり着き食事をとろうとなさりますが、水が底をついて天皇にさしあげることができません。そこで、お供の山部小左(やまべのおひだり)が天地の神に祈りを捧げると、この島の崖下から冷水が湧き出しました。このことから、この島を「水島」と呼ぶようになりました。
『日本書紀』
『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53年
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年

水島

〔高田みかん(こうだみかん)(八代市高田)〕
景行天皇の父である垂仁天皇(すいにんてんのう)は「非時の香菓(ときじくのかくのみ)」、すなわち、橘(たちばな)をお求めになりました。その命を受けたのは田道間守(たじまもり)。これを探しに常世の国に派遣され、ようやく橘を得て10年後に戻ることができましたが垂仁天皇は既にお亡くなりになられていました。
役目を果たせなかった田道間守は、当時、九州巡幸中だった景行天皇に火の国まで訪ねます。そして、高田付近で景行天皇と巡りあい橘を献上したのち、先帝を追って自決しました。景行天皇はこのことをたいへん悲しまれ、田道間守の最後の地になった高田に橘の実を植えられました。
これが、今もなお残っている高田みかん(八代みかん)の起こりだと伝えられています。紀州みかんで有名な和歌山県のみかんは、天正2年(1574年)、紀伊国の伊藤孫右衛門という人物が、高田から苗と種子を持ち帰って植えたのが、その起こりとされています。
なお、高田には天神地祇を祀った豊葦原神社(遥拝神社)がありますが、この境内で実った高田みかんが初詣の時期は縁起物として頂くことができます。
『日本書紀』
『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53年
御前明良 「紀州有田みかんの起源と発達史」経済理論292号 p97〜p118 和歌山大学発行 1999年

豊葦原神社(遥拝神社)でもらえる高田みかん




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