【第12第景行天皇】
景行天皇は第12代の天皇です。『日本書紀』に書かれてある和風諡号(わふうしごう)は「大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)です。第11代の垂仁天皇(すいにんてんのう)(活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと))の第三子で、日本武尊(やまとたける)の父にあたります。
実在説と非実在説がありますが、『古事記』『日本書紀』に記述があり、特に後者の『日本書紀』には景行12年から景行19年にわたる7年におよぶ九州征伐(九州巡幸)のことが記述されています。
河村哲夫氏は、著書『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』のなかで『日本書紀』や『風土記』、歴史考古資料、各地に残る伝説や現地調査によって、下図1のような景行天皇の九州巡幸の経路を示しました。また、安本美典氏の「統計的年代論」にのっとり、景行天皇の在位期間はおおむね西暦370年から385年と考えました(図2参照)。これは古墳時代の前期頃にあたります。
図1 景行天皇の九州巡幸経路
河村哲夫氏 著『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』より
図2 景行天皇の時代
図2 景行天皇の時代
河村哲夫氏 著『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』より
この時期、大陸では前秦が華北の統一を果たし、これに高句麗、新羅が接近をはかります。一方、朝鮮半島南西部で勢力を増大させてきた百済は南朝の東晋と倭国(日本)に接近をはかっていて、東アジアの政治情勢は緊張状態にありました。
このため、畿内大和を中心とするヤマト王権は、すみやかに国内の支配体制を確立し、百済と協力して高句麗と新羅の南下に備える必要がありました。
このため、畿内大和を中心とするヤマト王権は、すみやかに国内の支配体制を確立し、百済と協力して高句麗と新羅の南下に備える必要がありました。
景行天皇の九州巡幸やその子の日本武尊(やまとたける)の東征や西征は、このような国際的な政治情勢の中、速やかな国内統一のための抵抗勢力に対する討伐であったと考えられていています。そして、のちの神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅出兵につながったと考えられます。神功皇后の子は応神天皇であり、孫は仁徳天皇です。応神天皇、仁徳天皇の時代は、その古墳陵墓の大きさからもわかるように、日本は飛躍的な発展を遂げました。その基礎を築いたのが景行天皇と日本武尊だったのです。
おおげさかもしれませんが、景行天皇や日本武尊の親子は、東北や北海道を除いく当時の日本において最初に国内統一をやってのけた人物たちと言えるのではないでしょうか。しかし、それは血で血を洗ったような戦国武将に勝るとも劣らない武人だったということなのでしょうか。いずれにしても既にヤマト王権と友好的な関係にあった豪族に帰属していた人々は、巡幸してきた天皇をあたかもスーパースターもしくは本当のカミとあがめて迎え入れたのかもしれません。
つづく。
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