日本音楽舞踊会議の月刊誌『音楽の世界』1987年4月号から7月号までの4回にわたって、当時・日本楽友協会常任理事の冨田覚(さとる)氏による『ドヴォルザークは来日したのだろうか......』というエッセイが掲載されています。
↑ 冨田覚氏
「エッセイ」だということで、著者の妄想の中でドヴォルザークが来日して日本酒飲んで酔っぱらって「家路」をカラオケで歌った。。。みたいなバカげた作り話だと想像してたらノンフィクションだったのでドキドキしながら一気に読んでしまいました。
事実の指摘の部分だけ箇条書きでまとめてしまうと。。
◆冨田氏は1974年8月25日の午後1時半頃、栃木県日光市にあるK古美術店にて、同店所有保管のサイン帳に「ドヴォルザーク」というサインがあることを初めて知った。そのサイン帳は分厚いもので数冊あり、その中の一冊、1800年代後半から1900年代初期のものと思われるものの中にそれはあった。冨田氏はそれを1899年頃に「ドヴォルザーク」が日光に立ち寄ったときにサインしたものだと推測する。
◆その筆跡は、かつて同店を訪れた某外国人が作曲家ドヴォルザークのものであると言ったことがあった。
◆「ドヴォルザーク」のサインのほかに、三行ばかりの短い文章が書いてあり、何語だかわからないが「Schiff(ドイツ語なら船)」という文字だけは判読できた。
◆そのサイン帳には前後して、著名な歴史的人物のサインも散見された。例えばライト兄弟、電話のベル夫妻、近くはシンプソン夫人やチャップリン夫妻など。音楽関係ではもう一つ、 アーサー・フィードラー氏のサインもあった。
◆冨田氏の先生であるA氏に電話で相談したところ、そのサインとM音大所蔵のドヴォルザークの直筆資料と照合することを勧められた。さらにA氏にはサインのあるページ全体と、サイン帳全体の写真を送って見てもらうことにした。
◆それからいくら待ってもA氏から連絡がなく、待ちくたびれた冨田氏は「ドヴォルザーク」姓がチェコではありふれた名前なのか確かめるためチェコ大使館に電話した。「大変ポピュラーな名前」との回答に冨田氏は失望した。
◆他の人から「Schiff」を含む三行の文からはその「ドヴォルザーク」は艦隊に関係する人物であることを告げられ、冨田氏をさらにあきらめの境地に立たせた。
◆その後、調査の意欲をすっかり失ってしまった冨田氏は4年ほど、この件から遠ざかっていた。
◆ところが、1978年秋にまったくの別件で冨田氏が訪れた、日本弦楽指導者協会の理事長M氏が何気なく「あのドヴォルザークが横浜に来たことだって、みんなご存じないんだからねー 」と言ってのけて冨田氏はびっくり仰天。
◆すべての経緯を冨田氏から聞かされたM氏は、ドヴォルザークが来日したことが記されていた本は音楽関係の本ではなかったが、明治文明開化当時のことを詳述したもので、その中の数行に「音楽家ドヴォルザークは、アメリカへの途中、横浜に上陸し、約十日間くらい滞在した。その当時のわが国の楽壇は、それを知らなかったほど、まだ、その水準は低かったのである」と記されていたという記憶があると述べた。
◆その本はその時はついにM氏宅では見つからなかったが、M氏はさらに「その本はあの高名なH先生の名著、音楽明治○○年史の種本でもあったんだよ」と付け加えた。【堀内敬三氏の『音楽明治百年史』(音楽之友社、昭和43年)のことでしょうね】
◆冨田氏はヨーゼフ・ケーニヒ(N響の前身である日響の育ての親)がドヴォルザークの直弟子であったことを思い出した。果たして、ドヴォルザークはケーニヒを介して日本に立ち寄ったのだろうか。。。!?
。。。M氏のいう本ってなんて本?是非読んでみたいです。
それにしても日本人が大好きなドヴォルザークがもし本当に日本に来てくれていたとしたらすごくうれしいし、自慢できることですよね。