◆寄稿 衛藤 利彦
大分が大空襲を受けたのは、20年7月17日未明、0時15分から1時間40分の間のことでした。
この空襲で、大分市の中心部は壊滅状態になりました。その夜、私は勤務はなく自宅にいました。夜が明けるのを待って、家を飛び出しました。郵便局電信課には機械もあるし、通信社には持ち出さなくてはならない無線機もあったからです。
家を出て、大道の4丁目辺りまで来たのですがそこから先は一面火の海で、進めません。仕方なく当時の北太平寺の方にまわり、上野から市街地のほうへ向かったのです。ところが、現在の教育会館までどうにか来たものの大分合同新聞社も、郵便局にも近寄れません。
何時間か経過して、火勢が弱まるのを待ってやっと現在の市役所がある建物(当時は鉄筋造りの教育会館だった)に飛び込むことができました。そこではじめて聞いたことは新聞社も郵便局も一瞬のうちに焼けてしまったということでした。電信の機械もさることながら、やはり勤務をしていたであろう同僚、先輩たちのことが頭に浮かび心配でした。それに長年使っていたあの電鍵、タイプライター等がなくなってしまっては明日からはどこで通信をやるのかと何だかやるせない思いがしたものです。郵便局が焼失してからは現在のトキハデパートの1階を借りて通信作業は続けることになりました。※
※大分電信局の20年の郵便局からの移転月は、寄稿原文では7月でしたが、大分トキハデパートの記録(ウィキペキァ)に従い3月と書換えていた。だがその後、3月はトキハを電信電話局措置局とした月であり、郵便局焼失までは、移転はなかったことが判明した。よって、移転月は原文通りに戻しました。(昭28.10.17増田記)
あれは、日本各地で空襲が激しさを増してきた20年6月頃だったと思いますが、私たちの通信室のあった大分合同新聞社は郊外の野津原の山中に疎開しました。これに合わせ私たちも新聞社と同じ疎開先に移転することになり、無線機を野津原まで運び、受信を続けました。
この当時、疎開先の新聞社は、一般新聞紙の半分の大きさのタブロイド版の新聞を発行していました。
そのうち、時期はいつだったか、はっきりしませんが、どうしても大分市の郊外では、通信社として何かと不便ということになり、また移転することになりました。今度の移転先は、大分市内の支局長の家で、受信もそこでしました。
しかし、空襲の激下で、支局長宅も危なくなってきましたので、つぎは支局長宅の庭先に掘ってあった防空壕に無線機を運び込みました。暗い壕の中でレシーバーを耳に当て、敵の艦載機が何回となく市役所や県庁辺りを狙って機銃掃射をしたときは、いくら壕の中といえども、今にも頭上から弾丸が飛んでくるのではないかと、びくびくしながら受信を続け、タイプライターの手は休めず打ち続けました。
この防空壕のなかで、恐ろしかった機銃掃射は、一体いつのことだったのか、メモもないし、はっきりしないので、この思い出を書く前に大分市の空襲の記録を調べてみました。ところが、空襲記録には、B29の焼夷弾投下のことは詳しく書かれていますが、私が経験した機銃掃射の記録は見当たりません。大分では、私と同じ経験をした人は、たくさんいたはずだと思っています。
戦況が日々悪化しつつあった昭和20年6月頃になると、切迫した内容のニュースを受信することが増えてきました。
沖縄の牛島滿司令官が「祖国の勝利を信じて本日をもって全員玉砕をする。」と大本営に報告をし、自身は自決、沖縄がアメリカ軍の手に落ちたというニュース。
毎日送られてくる特攻機出撃のニュース、それは「白いマフラーをなびかせ戦友に別れを告げ笑顔を浮かべて飛び立つ若鷲・・(南方○○基地にて△△同盟特派員発)」のような内容でした。
その頃特攻機が飛び立つ基地は大部分が鹿児島県、なかには大分県内の宇佐あたりも含まれていたようです。
受信したニュースは、いずれも大変長い記事でした。全神経を集中し、1字1句ニュース内容を聞き漏らさないよう一生懸命受信したものです。
20代の若い人たちが、片道だけの燃料を積み基地から飛立ち、敵艦めがけて突っ込む。今にして思えば、なんとも言葉がありません。当時としては仕方のなかったことだったのでしょうか。
8月10日、御前会議でポツダム宣言を受諾する、しないの話し合いがあり、翌11日相手国に受諾する旨通告したらしい、と聞いた。日本側の発表はなかったが、傍受したニュースで、いよいよ日本は敗れたのかなあと、思ったりしました。しかし私たちは、大本営が流す沖縄は落ちたが神州は不滅だ、本土に上陸でもしようものなら水際で全滅してやるというニュースを、その頃はある程度信じていました。
8月14日の夜9時頃か、そのちょっと前あたりから関連記事は流れてきていたものの、あの終戦の詔書全文が送信されてきました。これは、文言が難しく受信するのに大変苦労しました。
その受信を終え、その日の日誌を郵便局に持って行きました。私たちは、毎日、派遣元の郵便局には、その日の主なニュース、記事等を日誌に記入して宿直の責任者に提出することになっていたのです。
今でも覚えていますがその日の宿直責任者は現在も元気でおられるS主事でした。詔書を受信した旨を書き、要注意事項として、「本件内容は絶対に漏らしてはならない。ただ「明日15日正午、1億国民が必ず聴取しなければならない重大放送がある」ことは話してもよい」と日誌の最後に記入していました。
もちろん通信社側からも、それ以上のことは口止めされていたし、傍らに憲兵もついているし、もし他言したら軍法会議にかけると脅されていました。
郵便局に日誌を提出すると、宿直の同僚たちは、口々に「重大放送とは何か。いよいよソ連も参戦か。大変なことになるなあ」とか「今晩は空襲警報も出らんし、えらく静かな晩だなあ」などと話すのを黙って聞いていました。
終戦になったのだから、今更アメリカ軍の攻撃などあるはずはなかった。同僚だけには、事実を話したいがそれはできないことでした。
国民には最後の最後まで真実の情報が流されなかったのである。広島、長崎に投下された原子爆弾にしても軍は「不明の大型爆弾を投下せる模様なり」とのニュースを流したのみであった。
8月15日正午の玉音放送はラジオのある支局長宅の庭で隣組の人たちがたくさん集まって聞きました。はじめの部分は雑音が多くて何のことやらその意味がわからず、ただぼうぜんと聞いていたのですが、だんだんとその内容がわかってくるにつれ、戦争は終わった、日本は敗れたんだ、ということがわかると皆んな泣きだしました。
記者をはじめ私たちは、そのとき、できあがっていた詔書を読みながら玉音放送を聞いたものでした。
その後の8月30日、マッカーサー元帥が日本占領の第1歩として厚木飛行場に降り立ったとき、内外の記者団にとり囲まれて話した「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長いそして困難な道のりだった。」で始まるステートメントを無線で受信したことは、今でもはっきりと覚えております。
こうして終戦となり、同盟通信社はその年に解散、その後は、共同通信社と時事通信社が新会社として引きつぎ、現在に至っています。
私の約4年の出向は、新しく発足した通信社で無線の仕事を継続した後、古巣に復帰したときに終りました。
時代は移り変わり、INSシステム・光ファイバー通信というように今や通信のやり方は大きく変化し、発展してきました。しかし、逓信講習所で頭ではなくて体で覚えさせられた有線通信のモールス符号は、人生の終着駅にたどり着くまで決して忘れることはないと信じています。
・-・・・ ―・- ― ―・ (トツートトト ツートツー ツーツート) オ ワ リ
◆寄稿者紹介
・衛藤利彦 大分県 大正15年(1926)~ 平成12年(2000)熊本逓信講習所普通科卒
・出典:この寄稿文は、以前「大分電報同窓会」開催日に席上配布されたものを会員の中川啓輔氏が保存されていたものです。
・友人の中川氏には、寄稿文のブログ入力、ご遺族へ寄稿承諾の依頼などをお願いしました。ご遺族と中川氏に厚くお礼申しあげます。(2016/2月増田)
大分が大空襲を受けたのは、20年7月17日未明、0時15分から1時間40分の間のことでした。
この空襲で、大分市の中心部は壊滅状態になりました。その夜、私は勤務はなく自宅にいました。夜が明けるのを待って、家を飛び出しました。郵便局電信課には機械もあるし、通信社には持ち出さなくてはならない無線機もあったからです。
家を出て、大道の4丁目辺りまで来たのですがそこから先は一面火の海で、進めません。仕方なく当時の北太平寺の方にまわり、上野から市街地のほうへ向かったのです。ところが、現在の教育会館までどうにか来たものの大分合同新聞社も、郵便局にも近寄れません。
何時間か経過して、火勢が弱まるのを待ってやっと現在の市役所がある建物(当時は鉄筋造りの教育会館だった)に飛び込むことができました。そこではじめて聞いたことは新聞社も郵便局も一瞬のうちに焼けてしまったということでした。電信の機械もさることながら、やはり勤務をしていたであろう同僚、先輩たちのことが頭に浮かび心配でした。それに長年使っていたあの電鍵、タイプライター等がなくなってしまっては明日からはどこで通信をやるのかと何だかやるせない思いがしたものです。郵便局が焼失してからは現在のトキハデパートの1階を借りて通信作業は続けることになりました。※
※大分電信局の20年の郵便局からの移転月は、寄稿原文では7月でしたが、大分トキハデパートの記録(ウィキペキァ)に従い3月と書換えていた。だがその後、3月はトキハを電信電話局措置局とした月であり、郵便局焼失までは、移転はなかったことが判明した。よって、移転月は原文通りに戻しました。(昭28.10.17増田記)
この当時、疎開先の新聞社は、一般新聞紙の半分の大きさのタブロイド版の新聞を発行していました。
そのうち、時期はいつだったか、はっきりしませんが、どうしても大分市の郊外では、通信社として何かと不便ということになり、また移転することになりました。今度の移転先は、大分市内の支局長の家で、受信もそこでしました。
しかし、空襲の激下で、支局長宅も危なくなってきましたので、つぎは支局長宅の庭先に掘ってあった防空壕に無線機を運び込みました。暗い壕の中でレシーバーを耳に当て、敵の艦載機が何回となく市役所や県庁辺りを狙って機銃掃射をしたときは、いくら壕の中といえども、今にも頭上から弾丸が飛んでくるのではないかと、びくびくしながら受信を続け、タイプライターの手は休めず打ち続けました。
この防空壕のなかで、恐ろしかった機銃掃射は、一体いつのことだったのか、メモもないし、はっきりしないので、この思い出を書く前に大分市の空襲の記録を調べてみました。ところが、空襲記録には、B29の焼夷弾投下のことは詳しく書かれていますが、私が経験した機銃掃射の記録は見当たりません。大分では、私と同じ経験をした人は、たくさんいたはずだと思っています。
戦況が日々悪化しつつあった昭和20年6月頃になると、切迫した内容のニュースを受信することが増えてきました。
沖縄の牛島滿司令官が「祖国の勝利を信じて本日をもって全員玉砕をする。」と大本営に報告をし、自身は自決、沖縄がアメリカ軍の手に落ちたというニュース。
毎日送られてくる特攻機出撃のニュース、それは「白いマフラーをなびかせ戦友に別れを告げ笑顔を浮かべて飛び立つ若鷲・・(南方○○基地にて△△同盟特派員発)」のような内容でした。
その頃特攻機が飛び立つ基地は大部分が鹿児島県、なかには大分県内の宇佐あたりも含まれていたようです。
受信したニュースは、いずれも大変長い記事でした。全神経を集中し、1字1句ニュース内容を聞き漏らさないよう一生懸命受信したものです。
20代の若い人たちが、片道だけの燃料を積み基地から飛立ち、敵艦めがけて突っ込む。今にして思えば、なんとも言葉がありません。当時としては仕方のなかったことだったのでしょうか。
8月10日、御前会議でポツダム宣言を受諾する、しないの話し合いがあり、翌11日相手国に受諾する旨通告したらしい、と聞いた。日本側の発表はなかったが、傍受したニュースで、いよいよ日本は敗れたのかなあと、思ったりしました。しかし私たちは、大本営が流す沖縄は落ちたが神州は不滅だ、本土に上陸でもしようものなら水際で全滅してやるというニュースを、その頃はある程度信じていました。
8月14日の夜9時頃か、そのちょっと前あたりから関連記事は流れてきていたものの、あの終戦の詔書全文が送信されてきました。これは、文言が難しく受信するのに大変苦労しました。
その受信を終え、その日の日誌を郵便局に持って行きました。私たちは、毎日、派遣元の郵便局には、その日の主なニュース、記事等を日誌に記入して宿直の責任者に提出することになっていたのです。
今でも覚えていますがその日の宿直責任者は現在も元気でおられるS主事でした。詔書を受信した旨を書き、要注意事項として、「本件内容は絶対に漏らしてはならない。ただ「明日15日正午、1億国民が必ず聴取しなければならない重大放送がある」ことは話してもよい」と日誌の最後に記入していました。
もちろん通信社側からも、それ以上のことは口止めされていたし、傍らに憲兵もついているし、もし他言したら軍法会議にかけると脅されていました。
郵便局に日誌を提出すると、宿直の同僚たちは、口々に「重大放送とは何か。いよいよソ連も参戦か。大変なことになるなあ」とか「今晩は空襲警報も出らんし、えらく静かな晩だなあ」などと話すのを黙って聞いていました。
終戦になったのだから、今更アメリカ軍の攻撃などあるはずはなかった。同僚だけには、事実を話したいがそれはできないことでした。
国民には最後の最後まで真実の情報が流されなかったのである。広島、長崎に投下された原子爆弾にしても軍は「不明の大型爆弾を投下せる模様なり」とのニュースを流したのみであった。
8月15日正午の玉音放送はラジオのある支局長宅の庭で隣組の人たちがたくさん集まって聞きました。はじめの部分は雑音が多くて何のことやらその意味がわからず、ただぼうぜんと聞いていたのですが、だんだんとその内容がわかってくるにつれ、戦争は終わった、日本は敗れたんだ、ということがわかると皆んな泣きだしました。
記者をはじめ私たちは、そのとき、できあがっていた詔書を読みながら玉音放送を聞いたものでした。
その後の8月30日、マッカーサー元帥が日本占領の第1歩として厚木飛行場に降り立ったとき、内外の記者団にとり囲まれて話した「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長いそして困難な道のりだった。」で始まるステートメントを無線で受信したことは、今でもはっきりと覚えております。
こうして終戦となり、同盟通信社はその年に解散、その後は、共同通信社と時事通信社が新会社として引きつぎ、現在に至っています。
私の約4年の出向は、新しく発足した通信社で無線の仕事を継続した後、古巣に復帰したときに終りました。
時代は移り変わり、INSシステム・光ファイバー通信というように今や通信のやり方は大きく変化し、発展してきました。しかし、逓信講習所で頭ではなくて体で覚えさせられた有線通信のモールス符号は、人生の終着駅にたどり着くまで決して忘れることはないと信じています。
・-・・・ ―・- ― ―・ (トツートトト ツートツー ツーツート) オ ワ リ
◆寄稿者紹介
・衛藤利彦 大分県 大正15年(1926)~ 平成12年(2000)熊本逓信講習所普通科卒
・出典:この寄稿文は、以前「大分電報同窓会」開催日に席上配布されたものを会員の中川啓輔氏が保存されていたものです。
・友人の中川氏には、寄稿文のブログ入力、ご遺族へ寄稿承諾の依頼などをお願いしました。ご遺族と中川氏に厚くお礼申しあげます。(2016/2月増田)
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