「戦争と通信~前知符号」前編
◆寄稿者 伊藤國芳
私は昭和17年15歳で山部特定郵便局に就職し、内勤事務員として、郵便の発着係を担当した。その後、企業内学校である北海道逓信講習所のことを知り受験。富良野で13人の受験者のうち2人が合格、幸い入学することができ、昭和19年7月札幌逓信講習所旭川分室に入学。翌昭和20年3月卒業し、富良野郵便局に赴任、電報係として毎日山部から富良野まで汽車通で働いた。太平洋戦争が始まってから、戦況が危うくなってきた頃である。
当時、毎日お客様からの電報も多く、通信はモールス信号で、講習所で習ってきたモールス符号を昼夜関係なく送受する。勤務は交代制だった。カタカナで書かれた電報を電鍵という機器を使って相手局に送信する。 また受信は、音響器という機器がありトンツートンツーと鳴るモールス符号の音を耳で聞きとり、脳でカタカナの文字に替え、複写式の電報用紙に炭さん紙を入れ替えながら鉛筆で書き込んでいく。送信、受信とも電文を1字1句誤りのないように通信しなければならない、
お客様からの電報は、生れた、危篤、死亡、送金、商取引などで、ほかに軍用電報も送受する。軍用電報は、数字ばかりで私達には理解できない。電文(数字)の多いときには電報用紙1枚60字詰めが5、6枚になることもあった。
さてここで本文タイトルの「前知符号」についてお話をします。
当時は訓練のための警戒警報、空襲警報が頻繁に発せられていた。その伝達は電報局から各受信施設のある郵便局に、モールス信号によって行われていた。
当時私は19歳であったが、年老いた今でも忘れることのできないことがある。
昭和20年7月15日午前5時、私が 郵便局の1階事務室でたった1人で泊まり明けだった日のことである。仮眠中の私は突然モールス符号の音に眼が覚め一 瞬体の血が引いて寒気を感じた。
それは空襲警報の前知符号ツーツーツートトトツーツーツで、応答すると続いて空襲警報発令の電文がモールス符号で送られてきた。それはいつもの訓練ではなかった。
震える手で受信し相手局に受信完了のOKを出す。あと1秒の遅れも許されない。早速受持ちである上富良野から落合間の各市町村役場に電話をする。各役場からは、直ちにけたたましいサイレンの音、街頭放送で空襲警報発令が住民に知らされる。
警報の連絡が終わり、私は乗馬ズボンを履き上着を身に着け、ゲートル(巻きキャハン)を左足に巻き終わり、右足に半分巻いたとき、雷が目の前に落ちたような音とともにダダダダと機銃掃射の音、慌てて布団を引っ張り出し、鉄製の机の下にもぐり込む。2階では電話交換手のキャーという声と板張りの床を走り回る音が聞こえる。木造の古い局舎も銃弾で数カ所穴が開く。
あとで聞いた話だが4人ほどいた宿直明けの電話交換手の1人は、鉄兜(今の保安帽)を背負い、気丈にも電話交換作業を続け、通信の確保に努めた。
当日来襲したアメリカのグラマン戦闘機は朝5時15分8機、12時20分12機、午後4時15分4機である。
この空襲により朝市民8人が死亡。市内の病院に焼夷弾が落とされ炎上、入院中の朝鮮人男性が即死した。市内の目貫き通りは未舗装で、銃弾による土煙はまさに戦争映画そのものであった。
昨今、衣、食、住、満ち足りた世の中で、凶悪な犯罪が頻発しているのは何故なのか。国民一人ひとりに不足しているのは何なのか。それを見出し、考え、行動するのが私達大人の責務ではないでしょうか。
ともあれ 、あの日空襲警報を受信し、各市町村に誤りなく伝達できたことを今でも誇りに思っています。
◆ 寄稿者紹介
・伊藤 國芳 北海道(旭川地方) 札幌逓信講習所旭川分室 昭和20年3月卒
昭和2年(1927)生れ
・ 出典:電友会北海道地方本部 電電こぶし会会報(平成27年発行)<前編204号P44、後編205号p38掲載のもの>
・寄稿者の社会奉仕活動
地域の民生委員、児童委員として昭和54年から26年間、生活保護申請手伝、家庭訪問を実施。一人暮らし高齢者の安否訪問、応援、相談、保護士として22年間、刑期途中仮釈放者の保護観察、月2回以上の来訪・訪問等の地域に根ざした奉仕活動を長期間実行している。このご功績により26年度第24回電友会ボランティア活動賞を受賞された.
・ 寄稿者からの掲載承諾その他、電電こぶし会事務局の皆様にはご協力をいただきお礼申しあげます。
◆寄稿者 伊藤國芳
私は昭和17年15歳で山部特定郵便局に就職し、内勤事務員として、郵便の発着係を担当した。その後、企業内学校である北海道逓信講習所のことを知り受験。富良野で13人の受験者のうち2人が合格、幸い入学することができ、昭和19年7月札幌逓信講習所旭川分室に入学。翌昭和20年3月卒業し、富良野郵便局に赴任、電報係として毎日山部から富良野まで汽車通で働いた。太平洋戦争が始まってから、戦況が危うくなってきた頃である。
当時、毎日お客様からの電報も多く、通信はモールス信号で、講習所で習ってきたモールス符号を昼夜関係なく送受する。勤務は交代制だった。カタカナで書かれた電報を電鍵という機器を使って相手局に送信する。 また受信は、音響器という機器がありトンツートンツーと鳴るモールス符号の音を耳で聞きとり、脳でカタカナの文字に替え、複写式の電報用紙に炭さん紙を入れ替えながら鉛筆で書き込んでいく。送信、受信とも電文を1字1句誤りのないように通信しなければならない、
お客様からの電報は、生れた、危篤、死亡、送金、商取引などで、ほかに軍用電報も送受する。軍用電報は、数字ばかりで私達には理解できない。電文(数字)の多いときには電報用紙1枚60字詰めが5、6枚になることもあった。
さてここで本文タイトルの「前知符号」についてお話をします。
当時は訓練のための警戒警報、空襲警報が頻繁に発せられていた。その伝達は電報局から各受信施設のある郵便局に、モールス信号によって行われていた。
当時私は19歳であったが、年老いた今でも忘れることのできないことがある。
昭和20年7月15日午前5時、私が 郵便局の1階事務室でたった1人で泊まり明けだった日のことである。仮眠中の私は突然モールス符号の音に眼が覚め一 瞬体の血が引いて寒気を感じた。
それは空襲警報の前知符号ツーツーツートトトツーツーツで、応答すると続いて空襲警報発令の電文がモールス符号で送られてきた。それはいつもの訓練ではなかった。
震える手で受信し相手局に受信完了のOKを出す。あと1秒の遅れも許されない。早速受持ちである上富良野から落合間の各市町村役場に電話をする。各役場からは、直ちにけたたましいサイレンの音、街頭放送で空襲警報発令が住民に知らされる。
警報の連絡が終わり、私は乗馬ズボンを履き上着を身に着け、ゲートル(巻きキャハン)を左足に巻き終わり、右足に半分巻いたとき、雷が目の前に落ちたような音とともにダダダダと機銃掃射の音、慌てて布団を引っ張り出し、鉄製の机の下にもぐり込む。2階では電話交換手のキャーという声と板張りの床を走り回る音が聞こえる。木造の古い局舎も銃弾で数カ所穴が開く。
あとで聞いた話だが4人ほどいた宿直明けの電話交換手の1人は、鉄兜(今の保安帽)を背負い、気丈にも電話交換作業を続け、通信の確保に努めた。
当日来襲したアメリカのグラマン戦闘機は朝5時15分8機、12時20分12機、午後4時15分4機である。
この空襲により朝市民8人が死亡。市内の病院に焼夷弾が落とされ炎上、入院中の朝鮮人男性が即死した。市内の目貫き通りは未舗装で、銃弾による土煙はまさに戦争映画そのものであった。
昨今、衣、食、住、満ち足りた世の中で、凶悪な犯罪が頻発しているのは何故なのか。国民一人ひとりに不足しているのは何なのか。それを見出し、考え、行動するのが私達大人の責務ではないでしょうか。
ともあれ 、あの日空襲警報を受信し、各市町村に誤りなく伝達できたことを今でも誇りに思っています。
◆ 寄稿者紹介
・伊藤 國芳 北海道(旭川地方) 札幌逓信講習所旭川分室 昭和20年3月卒
昭和2年(1927)生れ
・ 出典:電友会北海道地方本部 電電こぶし会会報(平成27年発行)<前編204号P44、後編205号p38掲載のもの>
・寄稿者の社会奉仕活動
地域の民生委員、児童委員として昭和54年から26年間、生活保護申請手伝、家庭訪問を実施。一人暮らし高齢者の安否訪問、応援、相談、保護士として22年間、刑期途中仮釈放者の保護観察、月2回以上の来訪・訪問等の地域に根ざした奉仕活動を長期間実行している。このご功績により26年度第24回電友会ボランティア活動賞を受賞された.
・ 寄稿者からの掲載承諾その他、電電こぶし会事務局の皆様にはご協力をいただきお礼申しあげます。
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