城郭 長谷川博美 基本記録

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城郭考古学 縄張 縄打 丁張 礎石配列と検出の奥義

2021-04-29 10:03:42 | 比較研究論
城郭ビイスタ論 上文字クリック

北近江城郭鳥瞰図上文字クリック

対談者
博美先生は寡黙で職人的な一面を持っておら
おれます考古学民俗学城郭研究等と多岐です。
一般者
いいえ!饒舌で楽しい学習会の時もあります。
長谷川
話題は変わりますが野球の打撃で言いますと、ライト、
センター、レフトへと、多角的に柔軟な打撃センスを
駆使し打ち分ける技巧派バッターの様で私はありたい、
それは、民俗学視点や、城郭研究視点や考古学視点や
文献『信長公記』文献史学などを統合総合した広視野
で冷静で偏らない歴史を大観できる人間を目指します。
城郭ビイスタ論 上文字クリック

対談者
この絵巻の中では女性も健気に必死に建築基礎工事現場
で働いてます。中世の城郭や城館そして寺社仏閣には
縄張りが存在しますか?縄や糸を張る世界が存在とは?

長谷川
勿論当然存在します。縄張には様々なものがあります。
身近なもので畑にネギを植える時に縄張を用いる人
も現在でも存在し農業土木建築作業現場の基本です。

長谷川
春日権現絵巻には「水糸を張って」(丁張)する様子が描かれ
ています。丁張して水平レベルや垂直垂線も出しています。
女性が水張し水平を出し、垂線を水糸で垂直に垂らす人や
工事を総監督する統領は尺間棒を担ぎ工事を指示してます。
作業員は水糸が張られた縦横の糸が交錯する場所に礎石を
盤石に設置しています。また配列する礎石を事前に一箇所
に集積して礎石の手配を担当する職人の分業化合理性も絵
から観察出来ます。音楽オーケストラの場合は演奏指揮者
だけでなくコンサートマスターと呼ぶ演奏家達をマネージ
メナト管理する人や、優秀な楽器演奏奏者の優れた手腕が
総合されこそ、初めて演奏会という機構組織が成立します。

対談者
大昔にも高い技術と職場の統率が存在したのですね?
まさか現代でも丁張は使われていますか?城郭考古学
の奥義を!是非御教示下さい!

◆『温故知新』
古きを温め、新しきを知る。

長谷川
令和の現代でも礎石を発掘で検出する時に礎石や
礎石穴に丁張をする事で、礎石配列を正確に早く
検出し発掘する事が可能です。何百年も前の縄打
や丁張の工法つまりを知識として身に着けそれを
現代考古学の現場で実践して冷静的確かつ迅速な
礎石配列の復元的発掘が可能なのです。
★↓見覚えのある人!★
長谷川
プロの職人は遠い昔も現代も普遍的な技術を駆使致します。
出来ません!解りません!で済まされない厳しい現場作業。
普遍性は昔も今も変わらない時間軸を超越した発想や思考。


対談者
偉そうな事言いますね?そんな縄張ごときで礎石が検出
出来るのですか?口先だけのニセ城郭研究家なら、世間
に掃いて捨てるほど居る。本物なら本物たる証明が大事

長谷川
大坂城は豊臣秀吉が建てたのではなく大工が建てたが正論。
織田信長も豊臣秀吉も徳川家康の決定的に現代人と異なる
事は我々現代人と全く異なる度量衡つまり物差しで築城や
城館を建設していていた事を、認識しなければなりません。
我々が何メートル何センチなど会話している世界と異なる
尺間法を当時は採用していた事。この城何メートルあるか?
と信長、秀吉、家康は絶対に家臣に質問しなかったのです!
つい昭和の中期まで日本人は足袋や靴の寸法を「もん」で
表現していました。衣服では七分袖や七分などの昔の尺寸
の名残が残っています。何割、何部、何厘、何毛等の利率
なども中国渡来の算術用語です。野球選手の打率を3割
とか2割とか東洋風に表現する事も中国算術の影響です。

長谷川
当時の該当城郭の尺間法を発掘現場は逸早く認識し採用し
て当時の礎石配列を検出する事が令和の現代の発掘現場に
活きるプロの人々です。地面に透かさず縄張りして迅速に
正確に往時の礎石の位置を検出発掘する事が考古学現場に
生き従事する我々現代職人の大切な使命や役目と言えます。
私は城郭を図書や情報から博識に知っているだけでは通用
しない厳しい現場の現実が存在致します。城郭遺跡解説は
そんな生易しい書籍から得ただけの智識で通用しませんよ!

▼見事に縄張復元で的確適正に検出の礎石裏込め石、画像!

◆当時の度量衡や尺間法を知り建築文化圏を知る意義

長谷川
また検出された柱の間隔「柱間」から京尺で作れた城館
か?関東尺で作られた城郭なのか?その遺跡建物が何処
の度量衡文化で作られたのか?を分析する事が出来ます。
近江番場の鎌刃城等も礎石「柱間」は当時の京尺が採用
されており堅牢な床板と鉄釘が城郭に存在した事を知る
事が出来ます。つまり近江鎌刃城は京都の度量衡を用い
た京風、近畿圏の文化に属する城郭遺跡と言えましょう。
京風の城郭だったのか?東国の城郭だったのか?現在で
も食の文化圏やイントネーションは関ヶ原近辺で関西と
関東に分けられます。ですから、戦国時代にも地域性が
存在した事を比較研究する事が肝要でしょう。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2020-12-11 18:33:11
正に現場の職人、城郭の奥義を知る先生だと思います。
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