城郭 長谷川博美 基本記録

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関西と関東の扇型ビイスタの城比較研究

2024-05-10 04:20:45 | 関東の城 ビイスタ工法

◆長谷川

先ず最初に今回の投稿に関して

余湖君のお城のページ様に掲載

されている山田城(行方市山田字妙義山)

をお借りして論述させて頂く事

を謹みて報告させて頂くと同時

に先方様のブログに深く敬意を

払わせて頂く所存であります。

従いまして山田城図は余呉様の

ブログより参考にさせて頂いた

事を改めて御報告申し上げます。

 

◆関西と関東の扇型ビイスタの城比較研究

▼余湖君のお城ページより引用掛腺記入

◆長谷川

日本全国に扇型に縄張された城郭

遺跡は多いと思われます以下の図

は先の余湖君のお城のページ様よ

りお借りしたものに私がビイスタ

腺を加えさせて頂いたものです。

山田城(行方市山田字妙義山)

も複数のビイスタ腺により縄張

されていると私は推定とてます。

◆長谷川

重複ビイスタ工法も読み取れます。

◆長谷川

泉州千石堀城の堀の形状も扇型

ビイスタ工法と思われます。

ウイッキペデイアより引用

千石堀城(せんごくぼりじょう)は、大阪府貝塚市橋本にあった日本の城山城)。

概要[編集]

橋本の東南1.5キロメートルに、東側には近木川、西側には見出川に挟まれた、南北約2キロメートルにわたる三ノ丞山と呼ばれる標高約70メートルの丘陵一帯が、千石堀城の跡と思われている。千石堀城は、積善寺城を主城とした近隣の高井城と同様支城のひとつであったと見られている。小栗街道から分岐し大熊街道の拠点であり交通の要地であった。岸和田城と対峙した時の要害のひとつが千石堀城である。

沿革[編集]

石山合戦石山本願寺と織田信長が戦った後、本願寺衆は根来衆雑賀衆と連携し、根来寺の支城として和泉国に5か所もしくは7か所の築いたと言われており、千石堀城もその一つである。築城年に関しては不明な点が多いが、1577年(天正5年)信長の紀州攻めの時には、根来衆や雑賀衆の中には信長に加勢する者も出て、結局城を守る根来・雑賀衆は信長と戦わずに城を捨てて海路撤退した。その後、それより更に強化され現在の千石堀城が築城されたと思われている。

▼織田信長 安土城 扇型ビイスタ

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