大分県の教員採用に関わる汚職事件が連日報道される。
今更何をという感じがしなくもない。
教員も自治体職員もコネがらみで採用されているということは、ないという方が無理だろう。
黙っているだけ。
構造的なものである。
管理職の登用もそうである。
校長、教頭というポストも金で買うか、魂を売って買うかいずれかになってしまった。
学校の教育方針を職員で合議して決定するということもないようだ。
「校長」に絶大な権限を与え、校長は地方の教育委員会の言いなりになり、地方の教育委員会は文科省にがんじがらめにしばられ、ものを言えない。その文科省は腐敗した官僚が牛耳り、官僚は自民党あるいは自民党的政治家の言うことを聞くフリをして政策をたてる。その文科省の大臣の見識のなさは今更言うまでもない。
教育の成果というものは、30年後、40年後に評価される、と言うことでなければならない。
つまり国家百年の大計である。にもかかわらず、すぐ成果を出せという。でなければ金を出さない、予算を出さないという仕組みを作った。
その顕著なものが新自由主義に基づく成果主義、小泉流「構造改革」であった。
尤も、昔から権力にすりより、己も権力の末端にあるかのように錯覚する哲学も良心も待たない教師はいた。
が、それは良く知るものには馬鹿にされた。哀れではあるが、幇間「野太鼓」(漱石「坊ちゃん」)は教師という聖職にはなじまない。
民間ならばどうか、私立学校はどうか。民間企業はどうか。
腐敗した民間企業は我々の生活と関係ないか。
これも合わせて考えてみたい。
今更何をという感じがしなくもない。
教員も自治体職員もコネがらみで採用されているということは、ないという方が無理だろう。
黙っているだけ。
構造的なものである。
管理職の登用もそうである。
校長、教頭というポストも金で買うか、魂を売って買うかいずれかになってしまった。
学校の教育方針を職員で合議して決定するということもないようだ。
「校長」に絶大な権限を与え、校長は地方の教育委員会の言いなりになり、地方の教育委員会は文科省にがんじがらめにしばられ、ものを言えない。その文科省は腐敗した官僚が牛耳り、官僚は自民党あるいは自民党的政治家の言うことを聞くフリをして政策をたてる。その文科省の大臣の見識のなさは今更言うまでもない。
教育の成果というものは、30年後、40年後に評価される、と言うことでなければならない。
つまり国家百年の大計である。にもかかわらず、すぐ成果を出せという。でなければ金を出さない、予算を出さないという仕組みを作った。
その顕著なものが新自由主義に基づく成果主義、小泉流「構造改革」であった。
尤も、昔から権力にすりより、己も権力の末端にあるかのように錯覚する哲学も良心も待たない教師はいた。
が、それは良く知るものには馬鹿にされた。哀れではあるが、幇間「野太鼓」(漱石「坊ちゃん」)は教師という聖職にはなじまない。
民間ならばどうか、私立学校はどうか。民間企業はどうか。
腐敗した民間企業は我々の生活と関係ないか。
これも合わせて考えてみたい。
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