伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

活動日誌 No.188

2016年11月16日 | 活動日誌
 活動日誌No.188を作成しました。

 11月3日に開かれた樋口陽一氏の憲法の講演会をメインにした記事です。

 ブログに一度書いていますが、こちらの記事はコンパクトにまとめてあります。良かったらご覧ください。

 20日付けの遠野地区の朝刊としんぶん赤旗に折り込みます。紙ベースは一緒刷りとなりますが、こちらもよければご覧ください。

 大きな画像の下の小さな画像をクリックすればお起きしてご覧いただけます。











■1面コラム

アメリカ大統領選挙は、大方の予想を覆して共和党のトランプ候補が当選した。話題になったメキシコ国境に壁を、米軍駐留に日本はもっと負担をなどの暴言があり、米国の行先が懸念された▼ところが、発言は次々修正されている。選挙中の発言はパフォーマンスで、選挙後、本音はこちらと政治を進める。これでいいのだろうか▼日本のTPPでも同じく問われる。絶対反対と公約した与党議員たちのもと、関連法の衆院採決が強行された。政治が呆れられ、投票率が下がるのはこのためだ▼遠野地区の市民文化祭で、遠野川柳会のみなさんの作品が展示されていた。日常を鋭く風刺しクスリとさせる。川柳を詠むみなさんなら、今の政治のあり方をどんな句にするのだろう。

■2面―3面
講演会 押し付け憲法論は自虐的 なるほどでした


 11月3日にいわき市文化センター大ホールで憲法学の第一人者・樋口陽一東大名誉教授が「立憲主義はこうして確立された~東日本大震災・被災三県の自由民権運動・苅宿・千葉・小田そして鈴木安蔵へ~」と題して行った講演を聞きました。日本国憲法は日本生まれ。聞いて納得の講演でした。

 樋口さんは、憲法のルーツを、自由民権活動家の苅宿中衛(現福島県浪江町出身)、千葉卓三郎(現宮城県栗原市出身)、小田為綱(現岩手県久慈市出身)、鈴木安蔵(現福島県南相馬市小高区出身)を紹介しながら明らかにしていきました。

 自由民権活動家が活動した明治時代初期の東北地方は、明治維新で実権を握った薩長藩閥政権の占領下にあったという認識を持つことが大切で、だからこそ「自由民権の声が上がるのは必然」だったと時代背景の認識を語った樋口さんは、苅宿中衛の活動を紹介しました。

 福島県に派遣され自由民権運動を監視・抑圧した県令・三島通庸と自由民権運動の対決が深まったことから、苅宿は3度逮捕されますが、いずれも無罪放免となり、自由党の板垣退助の招請で高知県などを訪ねたといいます。

 その高知には板垣の右腕とされる植木枝盛がいました。植木の憲法草案には、問題ある命令には従わない不服従の権利・抵抗権や革命権、さらに連邦制の規定がありました。苅宿はそういう人々と交流を持っていたというのです。

 千葉卓三郎は29歳の時に「五日市憲法」を起草したと言われてます。

 この憲法草案は、女性でも戸主の場合は参政権を与えたり、政治犯の死刑を廃止するなどの進んだ内容を持っているといいます。

 そして小田為綱。海外の憲法に偏っていると葬られた元老院作成の憲法草案をベースに独自の憲法メモを書き残しています。「憲法草稿評林」と呼ばれるその一文では、「軍は両院議決して進退せしめる」など皇帝(天皇)の軍の統帥権に議会の議決が必要なことなどを説いているといいます。

 日本にこういう前史があったからこそ米英中が戦後の処理を決めたポツダム宣言は、「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し」と「復活・強化」を説いたのだろうといいました。

 そして、戦後GHQの一員として来日し、昭和天皇とマッカーサーのGHQ側通訳を担当したハーバード・ノーマンは在野の憲法学者・鈴木安蔵を訪ねています。

 鈴木は、マルクス主義法学主義の立場で研究をすすめた憲法学者です。

 敗戦後の1945年11月に高野岩三郎らと「憲法研究会」を結成し、同会の唯一人の憲法の専門家として活動し、同年12月には鈴木がまとめた憲法草案をもとに憲法草案要項が作成されて発表されました。

 そこには、国民主権、天皇は国家的儀礼を司るや天皇は国政をせず内閣が責任をとるといった内容を含んでいたといいます。

 こうした在野の憲法草案策定の試みの一方で、政府が組織した憲法問題調査会の憲法の試案は国民主権に到達することもできなかった。そして、このままでは天皇を守ることもできないということで見切りをつけたGHQが、いわゆる“押し付け案”を策定することになったというのです。

 この憲法問題調査会には著名な憲法学者も参加していましたが、後に「委員の多くが帝国の役人たちで良いものが作れなかった」と述懐しているそうです。

 樋口氏は、鈴木の憲法草案要綱に到達した明治の時代から続いた憲法制定に関する日本での研究が日本国憲法に息づいていることを浮き彫りにしました。そして「事実に即して物を考えることから世の中を少しでも良くしていくことが大切です。今日の話でも、日本国憲法が押し付けられたという論がいかに自虐的なものなのか少しでも知っていただき、明治の先人たちの足跡にプライドを持っていただけることを読み取っていただきたい」と講演を結びました。

 ちなみにこれを書くにあたって調べていると、憲法研究会の憲法草案要項には戦争放棄はなかったようなのです。しかし、戦争放棄は幣原首相が提案したものだったことが、マッカーサーの書簡で確認されたという発見がありました。

 幣原は戦争調査会の開会あいさつで、「世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ(戦争放棄の)旗を翳(えい)して、遥(はる)か後方から付いてくる時代が現れるでありましょう」と述べています。

 また、「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」という発言もしていたといいます。

 一方で幣原は、戦争放棄と天皇制維持をセットで提案したかったが、敗戦から間もない状況で日本側から提案することはできず、「憲法は押し付けられたという形をとった」と説明しているというのです。

こうしたことからも日本国憲法が、日本の叡智から生まれてきたことには確信が持てます。

 樋口氏と米倉明東大名誉教授(民法学)のトークセッションで米倉氏は、日本国憲法の公布を、当時の明治憲法下で主権者だった天皇も、敗戦を迎えた国民も喜んでいたのだから押し付けられたというのは間違いだと指摘しました。

 こうしてみると、押し付け憲法という、ある意味感情的に改憲をあおる議論を排していくことが大切だとつくづく思いました。そして、なぜ改憲なのかを冷静に議論しながら日本国憲法を深く学び、それを現実の政治に活かしていくことがいま大切なのだろうと思います。




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