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■一歩(コラム)
お久しぶりです。この4年間市政を離れ、遠野和紙継承の活動に参加してきた。草刈りなど畑仕事に始まり、コウゾの育成からコウゾ皮の処理、紙漉き・乾燥まで。活動は年間を通し続いてきた
▼活動に参加し、材料作りから紙漉きまで一連の工程を教えていただき、実施し、基本の流れを覚えた。基本を知ることで、和紙継承活動の次の展開を考えられるようになった。やはり基本は大切だ
▼議会でも「基本が大切」は変わらないと思う。いわき市議会は5年前、議論を重ねながら議会基本条例を制定した。議会改革の一環だが、その基本には議会内の議論の活性化がある。最近、その議論が低調と聞こえてきた。残念だ
▼和紙の活動では、昨年から紙づくり体験を受け入れている。概ね好評を得ているが、紙づくりの基本を覚えたからこそできる活動だ。そう考えると、議会にも、活発な議論という基本を呼び戻す必要がある。それが市民のためになる。
■指摘と取り組みの実情がピッタリ重なり記事に納得
新聞記事が目をひいた。民俗学者の赤坂憲雄さんのインタビュー記事だ。昭和を振り返って評価しながら、次の時代に提言している。
いわく、昭和は「都市と地方の関係が大きく変わった」時代で、「古いものや弱いものを足蹴(あしげ)にするような笑いが流行」し、「地方で生まれた富を東京に環流」して繁栄し、バブル崩壊後は「若者や地方を犠牲にして行く伸びることを選んだ」。これを「昭和の負の遺産と考えるべき」という。
そして、「戦前から国家のエネルギー政策の拠点として東京への奉仕を強いられてきた」福島は、「足下に埋もれている歴史や文化を掘り起こしながら、地域分権型のシステムを守っていくべき」「地方や若者を収奪する社会は変えられるべき」「『自己責任』という名の責任逃れを許してはならない」という。
引用が長くなったが、この間、関わってきた遠野和紙継承の地域活動がこの指摘と重なる。
古くには、和紙が、障子紙やふすま紙、ちり紙などとして民の暮らしを、また帳簿用紙などの記録用紙として社会や経済を支えていた。
明治になり、洋紙工業が日本に伝来して以降和紙の生産は減少し、遠野和紙では2010(平成22)年に最後の職人が廃業した。
これらの背景には、手間がかかり値段が高岩氏は効率が悪いものとして、社会の片隅に追いやられたことがあると思う。
遠野和紙は、ボランティアや地域おこし協力隊員等によって細々とではあるが継承が図られてきた。
一昨年には、伝統工芸遠野和紙・楮(こうぞ)保存会が発足し、私も参加している。昨年からは和紙作りの体験を受け入れ始めた。
これまで6団体60人余を受け入れ、イベント参加の紙漉き体験3回も実施しているが、どこもおおむね好評を博している。和紙という古い伝統が、継承を図ることで、新しく遠野町の交流人口拡大の資源として育ちつつある。
この現状は、赤坂産の提言と重なると感じた。和紙継承の住民活動は徐々に広がっていると思う。一方、行政サイドの支援はこれまでもあるのだが、例えば美濃市などと比べるとどこか見劣りがしてしまう。
「足下に埋もれている歴史や文化を掘り起こす」活動に、行政がこれまで以上に力を入れることが必要なのではないだろうか。
■編集後記
「キョンがいた」。9日のいっせい清掃デーに聞いた。小型の鹿で、繁殖力が強く、千葉県等で住環境や農業等に被害をもたらしている特定外来生物だ。まずは、実態把握が肝心。見なれぬ動物にご注意を。ちなみに「ギャー」とおどろおどろしく鳴くよう。
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