小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京交響楽団×ライアン・ウィグルスワース(9/14)

2019-09-15 11:19:41 | クラシック音楽
オペラシティで東響と英国出身の1979年生まれの指揮者ライアン・ウィグルスワースの共演を聴く。指揮者の名前も知らなかったが、作曲家でピアニストでもあり、イングリッシュ・ナショナル・オペラのレジデント・イン・コンポーザーも務めた人だという。一曲目はベートーヴェン「ピアノ協奏曲第1番」の弾き振り。導入部を立って指揮したのち、ピアノを弾きはじめたが、この姿がなんとも「劇場の人」という雰囲気で、遠目からは少し顔も似ていたため来日中のパッパーノを思い出した。ウィグルスワースはグラインドボーンで「魔笛」も振るオペラ指揮者なので、パッパーノに指導を受けたことがあるのかも知れない。

このベートーヴェンが不思議な幻惑的世界で、ピアノの音がモーツァルトオペラのフォルテピアノ風にも聴こえることもあり、パステルカラーの物語を観ているような気分で、かなり夢心地になってしまった。退屈だから眠いのではなく、現実ではない特別な次元に連れ去られてしまう感覚があったのだ。休憩時間に評論家の方に感想をお聞きしたところ、私と同じ状態だったらしく「よかったけど寝てしまった」「パンチ不足かも」という。私としては「よかったので寝てしまった」。左手の素早いパッセージが見事で、両手の均質な動きが粒ぞろいの音を真珠玉のように転がしていた。「ベートーヴェンだけど、モーツァルトオペラみたい」というのはいかにもまぬけな感想だが、何をもってして様式感というのか、外側から観察しただけではわからない。慣例的に時代と様式で区分される「コンポーザー」の、既成のグリッドを全部外して、純粋なインスピレーション、ミニマルなクラフトをつなぎあわせて自在に再構成するような大胆さが感じられた。

 前半では、清冽な空気感を醸し出すオーケストラに「英国風」な何かを感じたが、こういう質感は指揮者が意図的に出しているものか、思わず出てしまうものなのかわからない。アラン・ギルバートの指揮には、時折マンハッタンの街を思わせるサウンドスケープが現れる。埋立地の基底部分に車のクラクションや町全体の喧騒が響いて、再び地上に戻ってくる音と似た反響が聞えることがあるのだ(説明が難しい)。
ウィグルスワースのサウンドからは、イギリスの夏の爽やかな空気、古い教会の鐘の音といったものが感じられた。15-18年までハレ管弦楽団の首席客演指揮者をつとめていたというが、高貴な透明感と、えもいわれぬ「情」が宿る音作りからバルビローリの録音を思い出す瞬間もあった。

後半はベートーヴェンのカンタータ「静かな海と楽しい航海」作品112で、初めて聴く。同タイトルのメンデルスゾーンのオーケストラ曲を去年指揮者コンクールで聴いたばかりだが、ベートーヴェンはメンデルスゾーンより厳かな雰囲気。7-8分の曲だが密度感があり、東響コーラスが素晴らしい準備をして実演に臨んだことが伺えた。めざましい声の輝き、オケの輝きが目に見える光彩となって二階席まで届いた。9/15の新潟公演ではにいがた東響コーラスが合唱を務める。
ブラームス『交響曲第3番』はどうなるのか予測不可能だった。作曲家の重厚なイメージと、どちらかというと女性的な優しさを感じた前半でのアプローチがどう組み合うのか、期待が募った。予想以上に、この指揮者の天才性を実感する内容で、音楽の内容のすべてを「内側から」感じて組み立てなおしている。作曲家のあらゆる個性、元ネタ、記譜法を知り、時計を分解してまた完全に再構成するように指揮しているのだと思った。それが出来るのは彼自身が作曲家であり、創造の源泉とは何かを日々吟味しているからだろう。
卓越していたのは二楽章のアンダンテで、素朴なモティーフが緻密に重なり、ブラームスが膨大な過去の音楽を取材し、書籍だらけの空間でこれを書き、心は自在に古き時代へ旅していたことが伝わってきた。音色が一秒ごとに変化していくような、指揮者の独特の「タッチ」にも驚愕した。そこからあの有名な三楽章のポーコ・アレグレットへつながる件は、言葉に尽くし難い。
 二階席からはパッパーノに見えたりアラン・ギルバートに見えたり、全体としてはまだシャイな若者にも見えたりしたが、youtubeでインタビューに答えている映像では、どちらかというと断固とした口調で自らの音楽哲学を主張する指揮者だった。しかし、音楽は危険なほど繊細だ。危険なほど、というのは、ウィグルスワースが感じている使命があまりに独自だと思うからだ。
巨大な直観に貫かれた哲学で音楽のパースペクティヴを変えようとしている。それは必然的に「戦闘」の趣を呈するだろう。しかし音楽は限りなく優しく、非肉体的で、素直な「魂」そのものを聴かせた。指揮者の棒を目で追っているだけで、美しいものが確実に生まれることが理解できた。左手の動きも美しい。右脳と左脳は三叉神経で交差するので、左脳が指揮棒で、右脳が左手のジェスチャーになるのだろう。右手と左手が奇跡的に均質であった冒頭のコンチェルトのソロを再び思い出した。
ウィグルスワースと東響は29日にもミューザ川崎シンフォニーホールで共演を行う。