小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』(9/18)

2019-09-19 12:20:40 | オペラ
来日中の英国ロイヤル・オペラ『ファウスト』ふたたび(9/18)。既に神奈川でスタートしている『オテロ』をまだ観ていないのに、オペラの残像に吸い寄せられるように昼間の上野に向かった。当日券で出ている一番安い席を選ぼうとしたが、上階センターブロックの一列目中央という好みの席が空いている。予算より高い席になったものの、オーケストラピットの3/4が見え、視界をさえぎるものがないので舞台も綺麗に見えて理想的だった。

英国ロイヤル・オペラの来日公演は2010年(『マノン』『椿姫』)2015年(『マクベス』『ドン・ジョヴァンニ』)を観ているが、総合的に高水準で、今回はさらに調子を上げてきている。『ファウスト』には「もっと近づいてその正体を知りたい」と思わせるものがあった。
オケの士気は一幕冒頭から充分。最初の一音をスタンバイしている弦楽器の構えが真剣だった。軽く驚いたのは、ピットの中にいる男性奏者が全員正装をして黒いリボンタイをつけていることで、他にもこういうオペラハウスはあるのかも知れないが、本当に英国紳士・淑女の集団なのだと思った。柔らかく繊細な木管セクションは、8人中女性奏者は一人。コントラバス6名は中央から上手奥にかけて横長に並び、こちらも女性奏者は一人。金管はホルンの一部しか見えなかったが、独自の配置に指揮者のサウンド・デザインのこだわりを見た。

歌手たちは初日と同様に安定感があり、二度目の鑑賞では見逃していたディテールや脇役の光る演技にも目が行った。ズボン役の花屋のジーベル役のジュリー・ボーリアンの澄んだ声が上階にも綺麗に届いてくる。「この婆さんは悪魔と結婚しようとしている!」とメフィストフェレスに呆れられる未亡人マルトを演じるキャロル・ウィルソンも筋金入りのコメディエンヌで、派手なドレスと媚態で登場した瞬間に笑いをとっていた。3幕のファウスト=マルグリート、メフィストフェレス=マルトの四重唱はどこかコミカルで、シリアスな中に笑いの要素が組み込まれているオペラのからくりに驚かされる。ザルツブルク音楽祭の映像で、ハンプソン演じるドン・ジョヴァンニに牛耳られるレポレロを演じていた昔のダルカンジェロを思い出した。

ファウストのグリゴーロ、マルグリートのレイチェル・ウィリス=ソレンセンはベスト・カップルで、演劇的な指向性が似ていると思った。それぞれ、自分の役についての分析が徹底している。マルグリートの「宝石の歌」は派手さよりも、物語全体の中での位置づけということが強調されていて、全5幕でこの人物をどのように見せていくかということに重きが置かれていた。ソレンセンは、当初来日が予定されていたヨンチェヴァから変更になった歌手で、ヨンチェヴァの前にはダムラウがキャスティングされていたこともあり、正直それほど期待していなかった。ロイヤルからキャスティングされるだけのことはある。演劇的な知性が随所に感じられ、声楽的には…自分自身を知り尽くし、予想外のどんなパターンにも最善を尽くす驚異的な準備がなされていた。長身で美人だが、基礎作りが実直で、浮ついたところがない。
グリゴーロの自己探求の深さにも舌を巻いた。以前オペラシティで聴いたリサイタルで「こんなマニアックなテノールがいるのか」と驚いたものだが、細部まで歌詞と旋律を吟味し、命をかけて歌う。リサイタルの歌曲では伴奏ピアニストがグリゴーロの歌を聴きながら涙を流していた。オペラにもそうした凝縮感があり、尋常でない取り組みが伺えたのだ。

英国ロイヤル・オペラの特徴とは「一途な働き者が集まってくるパワースポット」ということなのではないか。ふとそんなことを考えた。スターになるための処世術や、効率のいいパフォーマンスのコツといったもの…が、あるのかも知れないが、この劇場が与える感動は少し違う種類のもので、全員になんとも言い難い「逆境感」がある。フィジカルに恵まれて、ただ楽しく歌ってきた人はここにはいないのである。
 グリゴーロとソレンセンには、強固な「譲らない生き方」も感じた。全員が、方々の裾野から自分を信じて山を登り続け、頂上で出会った…というのがロイヤル・オペラという場なのではないか。「自分には学歴がないから、一生勉強を続ける」と言ったパッパーノもその一人だ。声楽教師の父のアシスタントをし、未来の伴奏ピアニストとして期待されていたパッパーノは、どの指揮者にも似ていない。アシスタントとして6年働いていたというバレンボイムを尊敬していたが、指揮者としては誰にも似ていないのだ。

パッパーノが18年かけて作り上げた劇場オーケストラの音は、基本的にはとても上品で、モダンさもあるのだが、『ファウスト』では、野卑で通俗的な音、ワイルドで爆発的な音も引き出されていた。もしかして、パッパーノが指揮棒を揮ってあれほど激しく動かないと、簡単に「上品なサウンドに逆戻り」してしまうのかも知れない。時折、びっくりするほどノスタルジックな…ジュリーニやバルビローリの録音を彷彿させるアナログでロマンティックな音も聴こえた。それがあまりに美しいので涙してしまったほどだが…ワルプルギスの夜のシーンでは、屋台のラッパのようなトランペットも聴こえ、パッパーノがオケに求めるイメージの多彩さには舌を巻いた。

ゾンビとなったマルグリートの兄ヴァランタンも登場するバレエ・シーンでは、ジゼルのウィリたちは全員裸足で、大きな叫び声を出して踊っていた。とびきり大きな悲鳴を上げていたバレリーナもいて、ピットでパッパーノが微笑んでいるのではないかと想像した。ソリスト絶唱のピークに銅鑼の音が被さるシーンもあり、とにかくオペラは演劇なのだということを目的に作られている。耳に心地よい、優等生的な音楽は求められていないのだ。
ダルカンジェロのメフィストフェレスは連日揺るぎなく、ドレス姿も凄かった。ルネ・パーペが同じ役を演じた写真ではもっと地味なデザインだったが…ダルカンジェロ版はもっと悪魔的なのだ。歌手によってコスチュームも変わる。

「オペラは人生そのもの」と語るグリゴーロのインタビューを読んだが、この来日公演で英国ロイヤル・オペラが教えてくれるのも人生そのもの…と感慨深く思った。ソリストも、合唱も、オーケストラも、マクヴィカーの演出にも「個人の人生」が感じられた。全員が引き返せない道を歩いてきて、真剣な労働を捧げてひとつのものを作り上げている。すべては「個人」なのだ。それが集団となったときに、凄まじいパワーが出る。
音楽を職業にしている人にとっては、莫大なインスピレーションを得られる上演。音楽をやっていない自分のような聴衆にとっても、こうした感動がどこからやってくるのか、神秘的な感慨に包まれるオペラだった。パッパーノに寄せられた大きな喝采、カーテンコールの後に客電がついても手拍子を続け、ステージに押し寄せた一階席の様子を見ながら思った。この『ファウスト』はただのオペラではなく、ちょっとした奇跡のオペラだったのである。