小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×ヴァイグレ ベートーヴェン/マーラー

2019-09-22 14:35:30 | クラシック音楽
常任指揮者セバスティアン・ヴァイグレと読響のウィーン・プログラムを東京芸術劇場で聴く(9/21)。10日ほど前に聴いたサントリーホールのプフィッツナー/ハンス・ロットは快演。こんなに早く読響になじんでしまっては、前任のカンブルランが可哀想…と余計な心配をしてしまうほど、新しい常任指揮者の「ドイツ色」はオーケストラと一体化していた。
 前半のベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』ではカリスマのオーラをまとったルドルフ・ブッフビンダーがゆっくり歩いて登場。個人的にもベートーヴェンのコンチェルトの中で一番好きな曲だが、ソリストの存在感がこれほどまでに揺るぎない演奏も初めて聴く。仰々しいところは全くないのに、華麗で貴族的で歓喜的なベートーヴェンの音楽を円熟のタッチで聴かせた。作曲家の自然観、生命観、楽観主義的なフィロソフィーが伝わってくる巨大なピアニズムで、読響とヴァイグレはごく自然な伴奏を奏でた。ピアニストの手中にすっぽりとはまったベートーヴェンは、巨匠と作曲家の相性の良さ、音楽の「気品」の重要さを教えてくれた。アンコールはピアノ・ソナタ『悲愴』の第3楽章を丸々演奏するという太っ腹なところも見せてくれ、贅沢なミニ・リサイタルのような一幕だった。

後半はマーラー『交響曲第5番』。低めの指揮台に上って第一楽章の葬送行進曲を振り始めたヴァイグレ、この楽章が極端に長く感じられた。ヴァイグレの動きは煩瑣で、指揮棒が何を示しているかがほとんど理解できない。混沌としたサウンドの渦の中で、テンポにも強弱にも理念が感じられなかった。これには少し驚いた。就任以来、快調なパートナーシップを見せてきた読響と指揮者が初めて「躓いた」感触があった。楽曲を熟知した指揮者が見せる左手には独特の余裕が現れるものだが、この曲でのヴァイグレの動きは形而下的で、譜面が示す「不条理」にひたすら「わからない」と言っているように見えた。

それでもオーケストラは鳴る。読響のオートマティックな合奏力は見事だ。そのうち、指揮者の性格とマーラーという作曲家が極端に「合わない」のではないかという疑念が湧いてきた。「マーラーは不可解。一番自分の性格に近いのはモーツァルト」と言い切ってくれたのは、日本フィルとのマーラー・ツィクルス中盤まできたときにインタビューに答えてくれた山田和樹さんだったが、そういう正直さは聴き手にとっても気持ちいい。山田さんはその後見事な6.7.8.9番を振って「バケた」のだが、何が起こったのかを聴くと「マーラーについての論文やカントの哲学書を読んだ」とのことで、その率直さにも二度のけぞったのだった。
 作曲家の性格に入りこむ…ということの奇跡を、今年になって何回か聴いた。チャイコフスキー、ブルックナー、ブラームス…指揮者は卓越したアイデアと直観と勤勉さでことの本質に切り込む。ヴァイグレも明らかに、楽曲の内奥に接近しようとしていた。その都度、作曲家から跳ね返されているという印象だった。指揮者が悪夢のような汗をかいているように見えた。
 歌劇場オーケストラで優れたリーダーシップをとってきたヴァイグレにとって、マーラーのシンフォニーはどのようなものだったのだろう。マーラーも歌劇場の指揮者だった。晩年近くのアバドが、この曲の矛盾と荒々しさを万感を込めて振っているのを見ると、ひどく心を打たれる。たくさんことが、たくさんの楽器によって引き起こされるが、このパッチワークを「不可解だ」と思ったときに、恐らく指揮者がとる究極の姿勢がある。自分が感じた即物性をそのまま、手旗信号のようにオケに投影する方法で、それが成功すると見事な戦争シンフォニーになる。そういうとき、オーケストラとは指揮者の自家用ヘリコプターなのだと深く納得してしまう。

マーラーは歪んでいる…その歪みを文体にして分裂症的なシンフォニーを書いた。インバルのマーラーは素晴らしいが、インバルの音楽には通常の道徳観では測れない、何者にも裁けない透き通った「悪」が貫いている。資質自体が、悪魔的なのだ。マーラーの前で、瀕死の特攻隊長のように頑張っているヴァイグレは、とてもいい人なのだ。楽想が次から次へと過呼吸気味に溢れ、1楽章から3楽章までほとんど同じ印象だったが、それはまさに善意の闘いだった。
 
 有名なアダージェットは、そこだけ切り離された世界で、新婚のマーラーがアルマに寄せて書いたというエピソードを思い出す。そのアルマが、10年も経たないうちに「こんな男はこりごりだ」と夫を捨てたのだ。マーラーは、女性と調和しているときだけこういう毒のない美しい曲を書けた。作曲家をオペラの登場人物に譬えるなら、悲劇の主人公だ。彼はオテロでもなかった。自分に無力感を与えたものに対して、普通の男性は猛毒をふるって仕返しをしようとするが、マーラーはそれを相手に味わわせて勝利をとろうとはしないのだ。「負けました…もうお仕舞いです」という9番のラストを、優美なアダージェットを聴いて思い出した。

最終楽章は奇妙なカタルシスに溢れていた。指揮者が楽想の何を優先したいのか、どういうテンポでどういうクライマックスが欲しいのか、コントロール権をほぼ放棄していたために、膨大な楽器が未消化の生々しい音を出し、昼の生き物も夜の生き物も一気に彷徨する荒々しいジャングルのような音場になった。それでも、どのパートも温かい。自分が愛する読響だった。男性同士が争いを続ける変わり映えのしない世界で、ヴァイグレの必死な背中を見て思った。トンネルは堀り始められたばかりで、これが本当の素晴らしいスタートなのだ。数々のRシュトラウスのオペラ上演にもまして、このコンサートが一番感動した読響とヴァイグレとの共演となった。

マーラー『巨人』の風刺画