2018ロシア年&ロシア文化フェスティバルのオープニングを飾るロシア・ナショナル管弦楽団の公演をサントリーホールで聴いた(6/12)。18時30分開演で、前半にチャイコフスキーの『セレナーデ・メランコリック』が演奏されたのだが、直前まで目黒でバレエ取材をしていたため遅刻してこちらは聴けず。『セレナーデ~』はヴァイオリニストの木嶋真優さんがソリストを務められた。
休憩のあとの演奏会形式『イオランタ』から客席で聴く。チャイコフスキーのこの一幕オペラはMETライブビューイングでネトレプコ主演のプロダクションを一度見たきり、実演は初めて。『エフゲニー・オネーギン』と同じように、冒頭は女性歌手たちの子守歌のようなやり取りではじまる。室内楽的で寛いだ優美なオーケストラとともに、盲目の姫イオランタと乳母、イオランタの友人である2人の女性たちが優しい歌を歌いはじめる。イオランタのアナスタシア・モスクヴィナの温かみのある美声が耳に快い。乳母の山下牧子さん、イオランタの友人鷲尾麻衣さん、田村由貴絵さんは舞台での立ち姿も美しく、レース編みのような繊細な声のクラフトを聴かせた。
永遠の眠りについているかのような、女性たちの重唱に囲まれて、イオランタは「何かが足りない」と嘆く。五感のひとつである目の悦びを生まれながらに奪われているイオランタを甘やかすべく、城の中に張り巡らされた繭のような優しさが合唱(新国立劇場合唱団)とオーケストラによって描かれていた。
プレトニョフの作り出す音楽には、一気にことの本質に下降する直観力と、毛細血管に染み込んでくるようなデリカシーがあり、聴衆を陶然とさせる。彼自身のオーケストラであるロシア・ナショナル管を率いての公演は格別で、どのパートも言葉のように雄弁で、ハーモニーは豊かな色彩を帯びていた。何よりもこの「物語を語りたい」という指揮者の熱い情熱に心動かされた。モスクワに初めて行ったとき驚いたのは、街のあらゆるところに小劇場があることで、演じることと物語ることはかの国では空気のように自然なことなのだった。
イオランタの父ルネ王と医師エブン・ハキアのやり取りのくだりは、音楽も一気に勇壮で男性的になる。イオランタに危険をともなう目の手術をさせるべきか否か…ルネ王をバス・バリトンの平野和さんが歌われたが、舞台姿も体格がよく声も立派だったため、最後までロシアの歌手が歌っているのだと思った。ところどころバスバリトンではありえない高音が出てくるのだが、強い喉でドラマティックに表現していた。医師を若いバリトン歌手ヴィタリ・ユシュマノフが歌い、金髪で痩躯の見た目からは信じられないほど逞しい声を聴かせてくれたので喝采したくなった。
ルネ王の禁断の城に迷い込む若者ヴォテモン伯爵とロベルト公爵が登場するあたりから、オペラも推進力を強めていく。テンポの速いオケの伴奏で、禁じられた庭へ入り込もうとするヴォテモンと、それを止めようとするロベルト。イオランタに恋するヴォテモン伯爵を絵に描かれた若きアーサー王のようなイリヤ・セリヴァノフが歌い、自分の恋人への熱い思いを歌うロベルト公爵をバリトンの大西宇宙さんが歌った。この場面では大西さんの勇敢な歌唱がより大きな喝采を浴びた。
眠っていた姫を外からやってきた王子が起こす…という物語は古今にあり、王子のキスで100年の眠りからさめるオーロラ姫や、猛者ジークフリートによって目覚める戦乙女ブリュンヒルデなどバレエやオペラでもシンボリックに描かれている。イオランタも五感のひとつが「眠っている」状態で、心ときめく騎士=ヴォテモン伯爵との出会いによって女として覚醒する。その様子を、チャイコフスキーは自分の持てる限りのイマジネーションを駆使して、究極の筆致で描き尽くすのである。まるで乙女イオランタが、自分の心の中に棲む一番大切な存在であるかのように。心の中の聖堂にいる音楽のミューズが、オペラ作曲家に作品を書かせるのだろう。チャイコフスキーの中の神聖なものが凝縮されている。「あなたは光をみたことがないのか…」と驚く騎士の歌からは、神が天地創造の一日目に作り出した光が確かに見えた。巨大な才能によって受肉したオペラには、泣き出したいほど張り詰めた美しさが漲っていた。
音楽は雄弁だが、何よりも物語の筋を聴かせるために献身的に鳴っていた。プレトニョフはこの神秘的な物語を伝えたいのだ。チャイコフスキーも物語の愛なしにはこの音楽を書かなかっただろう。そう思っているうちに、今までプレトニョフが東フィルとの共演で聴かせてくれたさまざまなオペラや劇音楽が次々と思い出された。東フィルの優しさと懐の深さが、ロシア・ナショナル管の美質と大陸のようにつながるのが感じられた。日本は何と素晴らしい国なのか…二つの国は確かに芸術の地下茎によってつながっていた。
イオランタを娶るべく「自分の身分に不足はない」と身の上語りをするヴォテモンと、イオランタの許嫁であることが明かされるロベルト公爵、プロヴァンス王であるルネ王の「水戸黄門」的な歌など、劇は途中からローエングリンの趣を呈する。チャイコフスキーもわざとやっているのか、ワーグナー的な響きの断片がオケにも飛び交っていた。ラストは、トゥーランドット的な大団円でもハッピーエンドでもなく、ロッシーニのミサ曲のように荘厳に終わる。オペラ形式としては折衷的だが、有り余るほどの美旋律と豊饒な歌声によって観客を喜ばせる内容に仕上がっていた。新国立劇場合唱団は霊的な声、地響きするような男声バスなどロシアの合唱団のような素晴らしい声を聴かせ、ソロ歌手たちを支えた。ルネ王の従者アルメリックを歌った高橋淳さん、門番ベルトラン役のジョン・ハオさんも素晴らしい出来栄えで、ロシアと日本の歌手たちが全く同じハイレベルな次元で共演していたことが嬉しかった。チャイコフスキーの中の聖なる存在を感じた貴重な上演だった。
休憩のあとの演奏会形式『イオランタ』から客席で聴く。チャイコフスキーのこの一幕オペラはMETライブビューイングでネトレプコ主演のプロダクションを一度見たきり、実演は初めて。『エフゲニー・オネーギン』と同じように、冒頭は女性歌手たちの子守歌のようなやり取りではじまる。室内楽的で寛いだ優美なオーケストラとともに、盲目の姫イオランタと乳母、イオランタの友人である2人の女性たちが優しい歌を歌いはじめる。イオランタのアナスタシア・モスクヴィナの温かみのある美声が耳に快い。乳母の山下牧子さん、イオランタの友人鷲尾麻衣さん、田村由貴絵さんは舞台での立ち姿も美しく、レース編みのような繊細な声のクラフトを聴かせた。
永遠の眠りについているかのような、女性たちの重唱に囲まれて、イオランタは「何かが足りない」と嘆く。五感のひとつである目の悦びを生まれながらに奪われているイオランタを甘やかすべく、城の中に張り巡らされた繭のような優しさが合唱(新国立劇場合唱団)とオーケストラによって描かれていた。
プレトニョフの作り出す音楽には、一気にことの本質に下降する直観力と、毛細血管に染み込んでくるようなデリカシーがあり、聴衆を陶然とさせる。彼自身のオーケストラであるロシア・ナショナル管を率いての公演は格別で、どのパートも言葉のように雄弁で、ハーモニーは豊かな色彩を帯びていた。何よりもこの「物語を語りたい」という指揮者の熱い情熱に心動かされた。モスクワに初めて行ったとき驚いたのは、街のあらゆるところに小劇場があることで、演じることと物語ることはかの国では空気のように自然なことなのだった。
イオランタの父ルネ王と医師エブン・ハキアのやり取りのくだりは、音楽も一気に勇壮で男性的になる。イオランタに危険をともなう目の手術をさせるべきか否か…ルネ王をバス・バリトンの平野和さんが歌われたが、舞台姿も体格がよく声も立派だったため、最後までロシアの歌手が歌っているのだと思った。ところどころバスバリトンではありえない高音が出てくるのだが、強い喉でドラマティックに表現していた。医師を若いバリトン歌手ヴィタリ・ユシュマノフが歌い、金髪で痩躯の見た目からは信じられないほど逞しい声を聴かせてくれたので喝采したくなった。
ルネ王の禁断の城に迷い込む若者ヴォテモン伯爵とロベルト公爵が登場するあたりから、オペラも推進力を強めていく。テンポの速いオケの伴奏で、禁じられた庭へ入り込もうとするヴォテモンと、それを止めようとするロベルト。イオランタに恋するヴォテモン伯爵を絵に描かれた若きアーサー王のようなイリヤ・セリヴァノフが歌い、自分の恋人への熱い思いを歌うロベルト公爵をバリトンの大西宇宙さんが歌った。この場面では大西さんの勇敢な歌唱がより大きな喝采を浴びた。
眠っていた姫を外からやってきた王子が起こす…という物語は古今にあり、王子のキスで100年の眠りからさめるオーロラ姫や、猛者ジークフリートによって目覚める戦乙女ブリュンヒルデなどバレエやオペラでもシンボリックに描かれている。イオランタも五感のひとつが「眠っている」状態で、心ときめく騎士=ヴォテモン伯爵との出会いによって女として覚醒する。その様子を、チャイコフスキーは自分の持てる限りのイマジネーションを駆使して、究極の筆致で描き尽くすのである。まるで乙女イオランタが、自分の心の中に棲む一番大切な存在であるかのように。心の中の聖堂にいる音楽のミューズが、オペラ作曲家に作品を書かせるのだろう。チャイコフスキーの中の神聖なものが凝縮されている。「あなたは光をみたことがないのか…」と驚く騎士の歌からは、神が天地創造の一日目に作り出した光が確かに見えた。巨大な才能によって受肉したオペラには、泣き出したいほど張り詰めた美しさが漲っていた。
音楽は雄弁だが、何よりも物語の筋を聴かせるために献身的に鳴っていた。プレトニョフはこの神秘的な物語を伝えたいのだ。チャイコフスキーも物語の愛なしにはこの音楽を書かなかっただろう。そう思っているうちに、今までプレトニョフが東フィルとの共演で聴かせてくれたさまざまなオペラや劇音楽が次々と思い出された。東フィルの優しさと懐の深さが、ロシア・ナショナル管の美質と大陸のようにつながるのが感じられた。日本は何と素晴らしい国なのか…二つの国は確かに芸術の地下茎によってつながっていた。
イオランタを娶るべく「自分の身分に不足はない」と身の上語りをするヴォテモンと、イオランタの許嫁であることが明かされるロベルト公爵、プロヴァンス王であるルネ王の「水戸黄門」的な歌など、劇は途中からローエングリンの趣を呈する。チャイコフスキーもわざとやっているのか、ワーグナー的な響きの断片がオケにも飛び交っていた。ラストは、トゥーランドット的な大団円でもハッピーエンドでもなく、ロッシーニのミサ曲のように荘厳に終わる。オペラ形式としては折衷的だが、有り余るほどの美旋律と豊饒な歌声によって観客を喜ばせる内容に仕上がっていた。新国立劇場合唱団は霊的な声、地響きするような男声バスなどロシアの合唱団のような素晴らしい声を聴かせ、ソロ歌手たちを支えた。ルネ王の従者アルメリックを歌った高橋淳さん、門番ベルトラン役のジョン・ハオさんも素晴らしい出来栄えで、ロシアと日本の歌手たちが全く同じハイレベルな次元で共演していたことが嬉しかった。チャイコフスキーの中の聖なる存在を感じた貴重な上演だった。