現在日本ツアー中のフランクフルト放送交響楽団のサントリーホールでのコンサートを聴く(6/14)。指揮は2014/2015シーズンからこの楽団の音楽監督を務めるコロンビア出身のアンドレス・オロスコ=エストラーダ。ウィーン・トーンキュンストラー監督時代から日本をよく訪れている指揮者で、フランクフルト放送響のシェフとしては2015年にもアリス紗良・オットとともに来日ツアーを行っている。
前半はチョ・ソンジンをソリストに迎えたラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』。導入部の鐘の音を暗示する和音で、チョ・ソンジンは最初の和音を重々しく弾いたあと、何かの訪れを待つように次の和音との間に空白を置いた。時間に計測するとコンマ何秒かのことだったかも知れないが、その沈黙で一気に「コンチェルトとは何か」ということを知るに至った。
ピアニストがオーケストラに囲まれて協奏曲を弾くことは、クラシックの聴衆にとって見慣れた光景だ。アルゲリッチは「協奏曲はリサイタルの半分の労力で済む」と言い、皮肉屋のアンデルジェフスキは「モーツァルト以降のピアノ協奏曲はピアニストのスターシステムを象徴したなんだか恥ずかしいもの」だと語る。充分なリハが取れないとか指揮者のエゴが嫌だと言ってコンチェルトを嫌うピアニストもいる。
チョ・ソンジンは、ピアノ協奏曲はピアニストのもので、その責任は舞台の中央にいる演奏家にある、ということを教えてくれた。その認識と覚悟のもとに、音楽の深い本質に降りていた。最初の一音と次の音の間の空隙には、外側から見た「コンチェルトを弾くピアニスト」という景色を逆転させるような、演奏家の内観の本質的表現があった。
チョ・ソンジンは正直なピアニストで、2015年のショパンコンクール優勝時も、ワルシャワ中がお祭り気分になっているときに「自分はショパンだけでなく色々な作曲家を弾いていきたい」という素っ気ないコメントを語り、少しばかり皆を冷や冷やさせた。しかし、ここにはピアニストの本質がある。理知的な彼は、音楽における没入や一体化ということと距離を置く。直観的に「そのやり方は自分とは違う」と思っているからだろう。ラフマニノフの2番のPコンチェルトは、映画音楽にもなったロマンティックな曲で、膨大な聴き手が夢のような感情を抱いている。旋律は溺れるような美に溢れていて、激情的だ。
チョ・ソンジンのピアニズムは、コンチェルトが感情の放恣に走ることをつねに避け、別の抜け道を探していた。分析的で明晰なアプロ―チで、音楽の心臓部に到達しようとしていた。ラフマニノフのロシアの歌を創り上げている、古い教会の旋法が色々な箇所で鮮やかに聴こえ、胸を掻き毟るノスタルジアが硬質な形で曲を潤していくのが感じられた。そこで、ラフマニノフのこの曲が、ラブソングでも愛の凱歌でもなく、孤独の中の静かな歓喜の音楽であったことが明らかになった。
自宅に帰って古い譜面を取り出してみると、確かに「A Monsieur N.Dahl」と記されている。この曲は精神科医ニコライ・ダーリ氏に献呈されたもので、「交響曲第1番」の酷評でノイローゼになったラフマニノフはダーリ博士の診療によって快癒したのだ、暗闇の中で光明を見せてくれた存在に対して捧げられた曲で、映画音楽ともラブストーリーとも関係がない。
ラフマニノフには後期のリストに似た精神性があると思う。ラフマニノフの『ピアノソナタ第2番』を聴いていると「孤独の中の神の祝福」という言葉が浮かぶ。協奏曲2番の本質にあるのはソナタ2番と同じ宗教性であり、作曲家の癒しがたくナイーヴな性格で、さまよう心が何とか拠り所を見つけようとする焦燥だと感じた。音楽が本質以外に着せられてきた衣装を脱がせて、ピアニストは「ラフマニノフと自分は等しい」という直観に達していたと思う。音楽の内側に息づくナイーヴさは、あらゆる境界を消して作曲家とピアニストの心を陸続きにしていた。
ソンジンのテクニックは完璧無比で、3楽章のコーダも華麗だったが、きらびやかさよりもこの曲をここまで深く掘り下げてみせた精神性を祝福したくなった。オケはピアニストの霊感を受け取り、緊張感のあるレスポンスを繰り返した。コンチェルトはやはりピアニストのものなのだ。
「この音楽は自分のものでない」という感覚は、素晴らしいインスピレーションを音楽家に与える。チョ・ソンジンが怜悧な知性によってラフマニノフに接近していった成り行きには、潔癖さがもたらす思いがけない成功の筋道が要約されている。
その衝撃さめやらぬまま、後半のマーラー『交響曲第5番 嬰ハ短調』を聴いたので、こちらは少しばかり求心力の足りない音楽に聴こえてしまった。オロスコ=エストラーダは77年生まれの若い指揮者で、活力とユーモアがあり、メンバーからも好かれているのが見てわかる。木管が上を向いて楽しそうに演奏しているのが目に入った。チームワークは万全だが、マーラーのナイーヴさ、曲の生命力=エンテレキーを作っているものがなかなか見えない。バルビローリやバーンスタインの録音だと一息に聴けてしまう5番が、楽章ごとに散乱したとても長い音楽に聴こえてしまった。リハーサルのときに、何か「言葉」が足りなかったのかも知れない。
それでも、ドイツの一流オケとしての魅力が、泉のようにこんこんと湧き出る楽章もあった。新婚のマーラーがアルマを想って書いた4楽章のアダージェットはこれまで聴いた中でも飛びぬけて美しく、神秘のヴェールの中から女神が現れるような気配がした。この日、コンサートの前にチェコの作曲家ミロシュ・ボク氏の記者懇親会があり、そのときボク氏が語った言葉を思い出した。
「ドイツでは戦時に9割のものが灰となりました。何もなくなったところで、ドイツの人々は音楽だけを支えに厳しい時代を生き抜いたのです」
心の拠り所、という言葉は美しい。人間というこわれやすい種にとって命を命たらしめるもので、時として水や食料よりも大事なものだ。1929年に創設されたフランクフルトのオーケストラが、マーラーの音楽とともに乗り越えてきた時代に思いを馳せた。終演は21時30分。
前半はチョ・ソンジンをソリストに迎えたラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』。導入部の鐘の音を暗示する和音で、チョ・ソンジンは最初の和音を重々しく弾いたあと、何かの訪れを待つように次の和音との間に空白を置いた。時間に計測するとコンマ何秒かのことだったかも知れないが、その沈黙で一気に「コンチェルトとは何か」ということを知るに至った。
ピアニストがオーケストラに囲まれて協奏曲を弾くことは、クラシックの聴衆にとって見慣れた光景だ。アルゲリッチは「協奏曲はリサイタルの半分の労力で済む」と言い、皮肉屋のアンデルジェフスキは「モーツァルト以降のピアノ協奏曲はピアニストのスターシステムを象徴したなんだか恥ずかしいもの」だと語る。充分なリハが取れないとか指揮者のエゴが嫌だと言ってコンチェルトを嫌うピアニストもいる。
チョ・ソンジンは、ピアノ協奏曲はピアニストのもので、その責任は舞台の中央にいる演奏家にある、ということを教えてくれた。その認識と覚悟のもとに、音楽の深い本質に降りていた。最初の一音と次の音の間の空隙には、外側から見た「コンチェルトを弾くピアニスト」という景色を逆転させるような、演奏家の内観の本質的表現があった。
チョ・ソンジンは正直なピアニストで、2015年のショパンコンクール優勝時も、ワルシャワ中がお祭り気分になっているときに「自分はショパンだけでなく色々な作曲家を弾いていきたい」という素っ気ないコメントを語り、少しばかり皆を冷や冷やさせた。しかし、ここにはピアニストの本質がある。理知的な彼は、音楽における没入や一体化ということと距離を置く。直観的に「そのやり方は自分とは違う」と思っているからだろう。ラフマニノフの2番のPコンチェルトは、映画音楽にもなったロマンティックな曲で、膨大な聴き手が夢のような感情を抱いている。旋律は溺れるような美に溢れていて、激情的だ。
チョ・ソンジンのピアニズムは、コンチェルトが感情の放恣に走ることをつねに避け、別の抜け道を探していた。分析的で明晰なアプロ―チで、音楽の心臓部に到達しようとしていた。ラフマニノフのロシアの歌を創り上げている、古い教会の旋法が色々な箇所で鮮やかに聴こえ、胸を掻き毟るノスタルジアが硬質な形で曲を潤していくのが感じられた。そこで、ラフマニノフのこの曲が、ラブソングでも愛の凱歌でもなく、孤独の中の静かな歓喜の音楽であったことが明らかになった。
自宅に帰って古い譜面を取り出してみると、確かに「A Monsieur N.Dahl」と記されている。この曲は精神科医ニコライ・ダーリ氏に献呈されたもので、「交響曲第1番」の酷評でノイローゼになったラフマニノフはダーリ博士の診療によって快癒したのだ、暗闇の中で光明を見せてくれた存在に対して捧げられた曲で、映画音楽ともラブストーリーとも関係がない。
ラフマニノフには後期のリストに似た精神性があると思う。ラフマニノフの『ピアノソナタ第2番』を聴いていると「孤独の中の神の祝福」という言葉が浮かぶ。協奏曲2番の本質にあるのはソナタ2番と同じ宗教性であり、作曲家の癒しがたくナイーヴな性格で、さまよう心が何とか拠り所を見つけようとする焦燥だと感じた。音楽が本質以外に着せられてきた衣装を脱がせて、ピアニストは「ラフマニノフと自分は等しい」という直観に達していたと思う。音楽の内側に息づくナイーヴさは、あらゆる境界を消して作曲家とピアニストの心を陸続きにしていた。
ソンジンのテクニックは完璧無比で、3楽章のコーダも華麗だったが、きらびやかさよりもこの曲をここまで深く掘り下げてみせた精神性を祝福したくなった。オケはピアニストの霊感を受け取り、緊張感のあるレスポンスを繰り返した。コンチェルトはやはりピアニストのものなのだ。
「この音楽は自分のものでない」という感覚は、素晴らしいインスピレーションを音楽家に与える。チョ・ソンジンが怜悧な知性によってラフマニノフに接近していった成り行きには、潔癖さがもたらす思いがけない成功の筋道が要約されている。
その衝撃さめやらぬまま、後半のマーラー『交響曲第5番 嬰ハ短調』を聴いたので、こちらは少しばかり求心力の足りない音楽に聴こえてしまった。オロスコ=エストラーダは77年生まれの若い指揮者で、活力とユーモアがあり、メンバーからも好かれているのが見てわかる。木管が上を向いて楽しそうに演奏しているのが目に入った。チームワークは万全だが、マーラーのナイーヴさ、曲の生命力=エンテレキーを作っているものがなかなか見えない。バルビローリやバーンスタインの録音だと一息に聴けてしまう5番が、楽章ごとに散乱したとても長い音楽に聴こえてしまった。リハーサルのときに、何か「言葉」が足りなかったのかも知れない。
それでも、ドイツの一流オケとしての魅力が、泉のようにこんこんと湧き出る楽章もあった。新婚のマーラーがアルマを想って書いた4楽章のアダージェットはこれまで聴いた中でも飛びぬけて美しく、神秘のヴェールの中から女神が現れるような気配がした。この日、コンサートの前にチェコの作曲家ミロシュ・ボク氏の記者懇親会があり、そのときボク氏が語った言葉を思い出した。
「ドイツでは戦時に9割のものが灰となりました。何もなくなったところで、ドイツの人々は音楽だけを支えに厳しい時代を生き抜いたのです」
心の拠り所、という言葉は美しい。人間というこわれやすい種にとって命を命たらしめるもので、時として水や食料よりも大事なものだ。1929年に創設されたフランクフルトのオーケストラが、マーラーの音楽とともに乗り越えてきた時代に思いを馳せた。終演は21時30分。