小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『サロメ』(6/5)

2019-06-08 09:52:38 | オペラ

二期会『サロメ』(ハンブルク州立歌劇場との共同制作)の初日を観た。会場は上野の東京文化会館。今年は小ホールで人形劇俳優たいらじょうさんによる『Salome』を観ていたので、偶然上野で二回目のサロメ。この物語の洞察的な「愛」についての視点を二度見ることになった。演出はヴィリー・デッカー。セバスチャン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団。

舞台を埋め尽くす無彩色の巨大な階段のセットに圧倒された。段数を数えてみようとしたが最後まで数えきれなかった(40段くらい?)。二期会は稽古場にも毎回同じセットを作るので、歌手たちはあの巨大階段を昇降しながら連日リハーサルをやっていたことになる。キャスト表に記載のない首切り人ナーマンを含めて舞台には約20名の歌手と演者が乗ったが、すべての動きが緻密に計算されていて、時々彫塑的にも見える悲劇的なシルエットが美しい。動きも大変だが、長時間静止したままの場面も多く、数分間微動だにしない歌手たちの姿に息を飲んだ。

「サロメを演出するには聖書から研究する必要がある」とは前述のたいらじょうさんの言葉だが、ヴィリー・デッカーの演出も大変練られたもので大きな衝撃性があった。古いが、同時にモダンな物語でもある。19世紀末にオスカー・ワイルドが書いた戯曲はスキャンダルとなった。演出家のジルベール・デフロが「『ルル』と並んで『サロメ』は20世紀の自立した女性のオペラ」と語っていたことを思い出した。サロメは愛されることを待っている女性ではない。自分の目で見たものを欲望し、自分の持てる力を行使して欲望を果たす女で、オペラのヒロインとしても革命的な存在なのだ。

ヴァイグレと読響のサウンドはピットから饒舌な言葉が溢れ出るような感触があり、華麗でダイナミックだった。R・シュトラウスはこのオペラで卓越したオーケストレーションを書き、その上で多くを演出家に委ねている。「これを演出しろ」と言われたら、どの演出家も最初当惑するのではないか? ト書きは決まっているとはいえ、あまりに多くの自由が与えられている。

ヴィリー・デッカーは、「極彩色の」と呼ばれるR・シュトラウスの音楽に無彩色のセットを配置し、絶世の若い美女サロメをつるつるのスキンヘッドにした。ヘロデ王がおびえる不吉な月のような姿である。それと同時に、俗性から切り離された修道女のようでもあり、赤ん坊のようでもある。無垢で異形のサロメだと感じた。森谷真理さんのサロメは絶品で、一体どのような準備をすればあのような歌唱が出来るのか想像もつかないが、演劇的にも「異形の姫」としての孤独感が圧倒的だった。ヨカナーンの描き方も独特だ。英雄的で微動だにしないヨカナーンも過去に見てきたが、デッカー演出ではヨカナーンは必死にサロメの求愛を拒絶し、自分自身が誘惑されないようにもがき苦しむ。大沼徹さんが見事に演じた。

前日のゲネプロでは田崎尚美さんのサロメと萩原潤さんのヨカナーンで既に結末を知っていた。ヘロデ王の「あの女を殺せ」の一言で、サロメは処刑されるのではなく剣で自死をはかる。『トゥーランドット』もラストで死ぬ演出があるが、それとは別の意味がある。森谷さんの歌と演技が、サロメの絶対的な孤独を伝えてきた。ヨカナーンの眩しい容姿を賛美し、拒絶されるたびに呪詛の言葉に変え、それを繰り返した後に「呪われたユダヤの娘!」と愛する男から突き飛ばされる。階段に倒れこむサロメと、そこから延々と続く無表情、サロメのパートの長い沈黙…それらが様々なことを伝えてきた。背後で喧々諤々とおこなわれるユダヤ人たちの宗教論議は、空疎なおしゃべりに見える。サロメには何も見えないし、聴こえない。突き飛ばされた瞬間に「この男を殺して、私も死ぬ」とサロメは決意した…デッカーはそう意図したのではないか。

サロメが拒絶された理由は「穢れた血」「淫乱なヘロディアスの娘」であるからであって、自分の出目を否定されたらもう何も出来ることはない。どんなに優しくしようと無駄なのだ。無関心に戻ることは出来ない。サロメは恋をし、官能的に火をつけられた。若者の官能は激しく、抑えるのがつらい。ヨカナーンもそういう演技だった。サロメの未来には絶望しかなく、残された手段は何もない。男は理念によって女を拒絶し、拒絶された女はそこで一度、概念的な死を経験する。なんという演出か。すべての歌詞が今まで聞いたこともないほど生き生きと暴れ出した。

 有名な「7つのヴェールの踊り」は踊りではなく、ヘロデ王を誘惑するサロメのさまざまな破滅的な動作によって描かれた。ここでサロメを演じる二人の歌手が、同じ振り付けながらほぼ別人に見える素晴らしい演技をした。森谷さんは森谷さんの、田崎さんは田崎さんの唯一無二のサロメだった。この場面では、以前から歌手がダンサーのような真似をする必要はないと思っていた。演出家は、過去の膨大な「なされてきたこと」を知らねばならず(それは偶然の剽窃を避けるためでもある)、デッカーは他者の中での自分自身を大胆な姿勢で示した。踊らず、ストリップショーもしないサロメは革新的だが、本質的なのだ。そういう試みは、演出家の「男と女をどう見るか」「権力をどう見るか」という素っ裸の心を表すだけに、危険も多い。そこまで本質を観たくない客もいるからだ。歌手や演奏家の熱意を帳消しにしてしまうリスクも負う。演出家とは、たった一人で何かを覆そうとしている存在なのだ。

ここまで観て、これほどのことをやるのだからお決まりの「ヨカナーンの生首」も出てこないかと思ったら、生首は出てきた。しかし、また驚くことが起こった。ヨカナーンが纏っていた黒っぽい厚地の長い上着を横にし(サロメはヨカナーンに拒絶されたあと、しばらくこの上着を着ている)、片手に生首を持つと、まるで胴体とつながった生きた男に見えるのだ。サロメはそこに歌いかける。本当は生きたまま愛したかったけれど、お前は私を見ようとしなかった…という歌詞がそこにはまった。サロメの飢渇感は、ヨカナーンの登場によって突然生まれ、相手からの拒絶によって残虐性に転じる。ヨカナーンはサロメを自己否定の危機にも追い込んだ。見慣れたオペラのストーリーが「本当のこと」から雪だるま式に逸脱した、奇妙な表面に見えたのは凄いことだった。心は深い次元で、別のことを訴えているのである。

ヘロディアス池田香織さん(Bキャストは清水華澄さん)も華やかな威厳を放ち、二期会のメッゾの世界レベルの実力を示した。前半で自決するナラボートも重要な役で、大槻孝志さん(Bキャスト西岡慎介さん)も演出家の意図を汲んだ真剣な役作りをされていた。カーテンコールには稽古から参加していたデッカー本人が現れたが、これほど多忙な人が長く準備に携わるのは珍しい。Bキャストの本番の演技も見届けていったと聞く。「あなたは愛をどう思う?」ということをヒリヒリと考えさせてくれるオペラ演出家という仕事について、しばし呆然としながら考えていた。8日と9日も公演が行われる。

 


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