全曲上演は日本初演となった読売日本交響楽団と常任指揮者シルヴァン・カンブルランによるメシアン作曲『アッシジの聖フランチェスコ』。東京で二回行われる公演の初日である11/19の公演を満員のサントリーホールで鑑賞した。オーケストラと合唱あわせて240人がステージに乗り、3台のオンド・マルトノがホールに立体的に配置された。上演時間は休憩込みで5時間半にわたる巨大なオペラである。カンブルランはこの作品のエキスパートで92年以来24回も振っているが、任期8年目で読響との演奏が実現した。
どこから語ったらいいのか…果てしなく大きな、大きなオペラであった。ひとつ素朴なことを言うなら、作曲家はオペラを書くとき「本当に伝えたいメッセージがあるから」書くのだということを改めて知った。創作に向かうエネルギーは音楽というカテゴリーを突破する巨大さを持ち、小手先のエチュードなんかではない、真に人間的なパッションと使命感がオペラを書かせる。ヴェルディやワーグナーと同じ情熱が、メシアンにもあった。『アッシジ…』は台本もメシアン自身が書いているのだ。
その情熱のすべてをこの上演で受け取った。オペラは巨大な愛であり、寛大さであり、見えない神秘だった。毎秒ごとにオーケストラと合唱から放出されるパワーは濃密で、衝撃の連続であった。
聖フランチェスコの物語はオペラの素材としては特異だ。彼は虐げられている人物でも不幸な人物でもなく、弟子たちから尊敬され、客観的には何の問題もない存在として舞台にいる。巻き起こるドラマは精神的なもので、神父フランチェスコは「すべての人間が等しく幸福であることは可能か」をひたすら考える。重い皮膚病患者の醜い皮膚の斑点や悪臭に嘔吐感を感じる自分を責め苛む。
「神は醜いイボガエルや毒キノコを、トンボや青い鳥と同じように創造した」…その謎について思い悩むのだ。
「形を越えて相手と一体化すること」とはイエスの説いた「無条件の愛」そのものである。
聖フランチェスコのヴァンサン・ル・テクシエが卓越した演技だった。演奏会形式だが、歌手たちは自然な演技をし、テクシエは歌っているときだけでなく、他の歌手たちの声を聴いているときも素晴らしかった。フランチェスコの葛藤を「実際に感じて」いたのだ。それが客席にも伝わってきて、痛いほどの想いに何度もとらわれた。
オーケストラはメシアン独特の不規則なフレージングを奏で、突然訪れる休符ではぴたっと止まるのが奇跡的だった。打楽器パートは一瞬たりとも気を抜けず、これが面白いことにもうひとつの「隠された言語」のように聴こえる。弦や管が打楽器の「言語」の抑揚を引き継いで演奏する箇所もあり、オーケストラ全体で「見えていない世界の秩序」を表わしているようでもあった。可視的宇宙と同時に進行している不可視宇宙とでもいうのか。パラレルワールドのような世界が感じられた。
重い皮膚病患者を演じたペーター・プロンダーはイギリス出身のベテラン歌手で、紫のシャツを着て善良な雰囲気を放っていた。みずからの不運を嘆き、心のわずかな光明さえ失ってしまったこの役は、歌詞のひとふしひとふしが悲痛で、彼の無念さと哀しみと痛みを聴いているのが苦しかった。フランチェスコ役のテクシエも辛そうな表情だ。フランチェスコが霊感を得て、重い皮膚病患者を抱きしめる場面は、暗示的に演じられた。実際に抱擁するのではなく、指揮者を隔てた歌手二人が、止まったようにお互いを見つめ手を伸ばし合った…そのときの音楽は、何に譬えたらいいのか…メシアンは「トリスタンとイゾルデ」を超える存在と存在の一体化をここで描いたのだ。
天使役のエメーケ・バラートは若く美しいソプラノで、謎めいた表情で謎めいた言葉を歌う。「救霊予言説をどう考えますか?」という質問を弟子たちに向け、答えを聞き出す。乱暴者の男の子のようにドアをガンガンとノックする。彼女は小鳥であり、エアリアルのような精霊であり、女神であり天使なのだ。めざましく豊かな高音でメシアンの難しいパッセージを完璧に歌い、何よりミステリアスな瞳が素晴らしかった…どんな場面でも「私はすべてをわかっているのです」という表情で、歌にも所作にも厳かな確信があった。バラートがまとっていた煌めくグレーのドレスも完璧なコスチュームだった。
長大なオペラなので客席にいても疲労感があるが、聴いているほうよりも演奏しているオーケストラの方が何100倍も大変なのは当然で、読響のパワーと集中力にはほとんど畏れ多さを感じた。カンブルランはどうしても、これを読響とやりたかったのだ。
カンブルランには色々な機会に質問をしてきた。記者会見では「読響をどのように変化させたいのか?」と聞き、個別インタビューでも「読響との理想のゴールは?」というようなことを聴いた。するとそのたびに、カンブルランは笑顔で「不満なんて何一つない。今も充分に素晴らしいオーケストラだ」と答えるのだ。彼はお世辞や嘘をいう人ではなく、心からの言葉であることが伝わってくる。彼は読響が大好きなのだ。
それでも、剛速球のベートーヴェンや難しい現代曲をオケが必死になってやっているのを見ると「カンブルランももっと手加減して、演奏する楽しみを与えてあげればいいのに…」と思うことがあった。
カンブルランはもしかしたら、読響における神父フランチェスコなのかも知れない…。神父は現状にあきたらず、さらに完全な人間性について深く考察する。神と自然と宇宙からインスピレーションを得る。それは最初、あまりに現世からかけ離れたアイデアなので弟子たちは驚くが、神父の辿り着いた境地についていく…。
カンブルランは「アッシジをやることで、来年はさらにいい関係がオーケストラと築けるでしょう」と語った。彼の任期は2019年までだ。ヨーロッパを代表する名指揮者が任期を延長して読響にいてくれることは有難い。その間、彼はオケをたくさんたくさん成長させようとしているのだ。一緒にいて和気あいあいと楽しくやればいいというのではない。「一緒にいる間は必死で頑張ろう。そして自分がいなくなったあとも成長を続けるんだよ」と言っているような気がした。
それはなんという偉大な父性なのか…アッシジの聖フランチェスコとは、指揮者の物語である。私の勝手な解釈だが、そうとしか思えなかった。彼の巨大な人間としての資質が、指揮者であることによってさらに巨大なものとなり、巨大なメシアン作品と結びついた。その愛を押し上げているのは、超人的な知性であり、芸術がこの世に存在する素晴らしさを伝える温かい心だった。
メシアンのテキストのすべてをもう一度読み返したいが、著作権の問題で印刷物を作ることは出来ないと聞く。私は神秘家なので、メシアンのリブレットにいくつもの暗号が隠されているのを察知した。「下降するように見せて上昇していく魂」「見えない音楽をいよいよ聴くことになる(音楽とはもともと見えないものではないか)」といった表現、永劫回帰や占星術を思わせるキーワードがたくさんあった。
二幕では聖フランチェスコ自身が饒舌な鳥類学者となり、鳥たちについての膨大な知識を歌う。芸術論も歌う。本当にこのオペラは…宇宙に輪郭がないように、輪郭がない。果てしなく膨張し続ける愛の世界なのだ。
新国立歌劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブルの合唱は、自然界の音、人間の精神の動揺と歓喜、宇宙が奏でる音すべてを聴いたこともない多彩な表現で聴かせた。オケとともに、合唱が準備にかけた時間と努力にも感謝したい。水の中に何分も潜っているようなすさまじいロングトーンも聴かせた。このオペラは規格外のことをすべての演奏家にさせるのだ。それが、美になって結実していた。
『アッシジの聖フランチェスコ』日本全幕初演となったこの日は、最後まで聴き届けた観客もオーケストラとメシアンの物語と一体化した。疲労は歓喜になり、カンブルランの薔薇色の笑顔をもう一度見たい聴衆は何度も彼をステージに呼び出した。いつものように可愛いポーズをとってしまうマエストロに「あ、おとうさん…」と思ってしまう。永遠に一緒にいてほしい…と思う気持ちと、あと2年で任期が終わることの寂しさが同時にこみ上げた。東京では26日にも上演される。
どこから語ったらいいのか…果てしなく大きな、大きなオペラであった。ひとつ素朴なことを言うなら、作曲家はオペラを書くとき「本当に伝えたいメッセージがあるから」書くのだということを改めて知った。創作に向かうエネルギーは音楽というカテゴリーを突破する巨大さを持ち、小手先のエチュードなんかではない、真に人間的なパッションと使命感がオペラを書かせる。ヴェルディやワーグナーと同じ情熱が、メシアンにもあった。『アッシジ…』は台本もメシアン自身が書いているのだ。
その情熱のすべてをこの上演で受け取った。オペラは巨大な愛であり、寛大さであり、見えない神秘だった。毎秒ごとにオーケストラと合唱から放出されるパワーは濃密で、衝撃の連続であった。
聖フランチェスコの物語はオペラの素材としては特異だ。彼は虐げられている人物でも不幸な人物でもなく、弟子たちから尊敬され、客観的には何の問題もない存在として舞台にいる。巻き起こるドラマは精神的なもので、神父フランチェスコは「すべての人間が等しく幸福であることは可能か」をひたすら考える。重い皮膚病患者の醜い皮膚の斑点や悪臭に嘔吐感を感じる自分を責め苛む。
「神は醜いイボガエルや毒キノコを、トンボや青い鳥と同じように創造した」…その謎について思い悩むのだ。
「形を越えて相手と一体化すること」とはイエスの説いた「無条件の愛」そのものである。
聖フランチェスコのヴァンサン・ル・テクシエが卓越した演技だった。演奏会形式だが、歌手たちは自然な演技をし、テクシエは歌っているときだけでなく、他の歌手たちの声を聴いているときも素晴らしかった。フランチェスコの葛藤を「実際に感じて」いたのだ。それが客席にも伝わってきて、痛いほどの想いに何度もとらわれた。
オーケストラはメシアン独特の不規則なフレージングを奏で、突然訪れる休符ではぴたっと止まるのが奇跡的だった。打楽器パートは一瞬たりとも気を抜けず、これが面白いことにもうひとつの「隠された言語」のように聴こえる。弦や管が打楽器の「言語」の抑揚を引き継いで演奏する箇所もあり、オーケストラ全体で「見えていない世界の秩序」を表わしているようでもあった。可視的宇宙と同時に進行している不可視宇宙とでもいうのか。パラレルワールドのような世界が感じられた。
重い皮膚病患者を演じたペーター・プロンダーはイギリス出身のベテラン歌手で、紫のシャツを着て善良な雰囲気を放っていた。みずからの不運を嘆き、心のわずかな光明さえ失ってしまったこの役は、歌詞のひとふしひとふしが悲痛で、彼の無念さと哀しみと痛みを聴いているのが苦しかった。フランチェスコ役のテクシエも辛そうな表情だ。フランチェスコが霊感を得て、重い皮膚病患者を抱きしめる場面は、暗示的に演じられた。実際に抱擁するのではなく、指揮者を隔てた歌手二人が、止まったようにお互いを見つめ手を伸ばし合った…そのときの音楽は、何に譬えたらいいのか…メシアンは「トリスタンとイゾルデ」を超える存在と存在の一体化をここで描いたのだ。
天使役のエメーケ・バラートは若く美しいソプラノで、謎めいた表情で謎めいた言葉を歌う。「救霊予言説をどう考えますか?」という質問を弟子たちに向け、答えを聞き出す。乱暴者の男の子のようにドアをガンガンとノックする。彼女は小鳥であり、エアリアルのような精霊であり、女神であり天使なのだ。めざましく豊かな高音でメシアンの難しいパッセージを完璧に歌い、何よりミステリアスな瞳が素晴らしかった…どんな場面でも「私はすべてをわかっているのです」という表情で、歌にも所作にも厳かな確信があった。バラートがまとっていた煌めくグレーのドレスも完璧なコスチュームだった。
長大なオペラなので客席にいても疲労感があるが、聴いているほうよりも演奏しているオーケストラの方が何100倍も大変なのは当然で、読響のパワーと集中力にはほとんど畏れ多さを感じた。カンブルランはどうしても、これを読響とやりたかったのだ。
カンブルランには色々な機会に質問をしてきた。記者会見では「読響をどのように変化させたいのか?」と聞き、個別インタビューでも「読響との理想のゴールは?」というようなことを聴いた。するとそのたびに、カンブルランは笑顔で「不満なんて何一つない。今も充分に素晴らしいオーケストラだ」と答えるのだ。彼はお世辞や嘘をいう人ではなく、心からの言葉であることが伝わってくる。彼は読響が大好きなのだ。
それでも、剛速球のベートーヴェンや難しい現代曲をオケが必死になってやっているのを見ると「カンブルランももっと手加減して、演奏する楽しみを与えてあげればいいのに…」と思うことがあった。
カンブルランはもしかしたら、読響における神父フランチェスコなのかも知れない…。神父は現状にあきたらず、さらに完全な人間性について深く考察する。神と自然と宇宙からインスピレーションを得る。それは最初、あまりに現世からかけ離れたアイデアなので弟子たちは驚くが、神父の辿り着いた境地についていく…。
カンブルランは「アッシジをやることで、来年はさらにいい関係がオーケストラと築けるでしょう」と語った。彼の任期は2019年までだ。ヨーロッパを代表する名指揮者が任期を延長して読響にいてくれることは有難い。その間、彼はオケをたくさんたくさん成長させようとしているのだ。一緒にいて和気あいあいと楽しくやればいいというのではない。「一緒にいる間は必死で頑張ろう。そして自分がいなくなったあとも成長を続けるんだよ」と言っているような気がした。
それはなんという偉大な父性なのか…アッシジの聖フランチェスコとは、指揮者の物語である。私の勝手な解釈だが、そうとしか思えなかった。彼の巨大な人間としての資質が、指揮者であることによってさらに巨大なものとなり、巨大なメシアン作品と結びついた。その愛を押し上げているのは、超人的な知性であり、芸術がこの世に存在する素晴らしさを伝える温かい心だった。
メシアンのテキストのすべてをもう一度読み返したいが、著作権の問題で印刷物を作ることは出来ないと聞く。私は神秘家なので、メシアンのリブレットにいくつもの暗号が隠されているのを察知した。「下降するように見せて上昇していく魂」「見えない音楽をいよいよ聴くことになる(音楽とはもともと見えないものではないか)」といった表現、永劫回帰や占星術を思わせるキーワードがたくさんあった。
二幕では聖フランチェスコ自身が饒舌な鳥類学者となり、鳥たちについての膨大な知識を歌う。芸術論も歌う。本当にこのオペラは…宇宙に輪郭がないように、輪郭がない。果てしなく膨張し続ける愛の世界なのだ。
新国立歌劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブルの合唱は、自然界の音、人間の精神の動揺と歓喜、宇宙が奏でる音すべてを聴いたこともない多彩な表現で聴かせた。オケとともに、合唱が準備にかけた時間と努力にも感謝したい。水の中に何分も潜っているようなすさまじいロングトーンも聴かせた。このオペラは規格外のことをすべての演奏家にさせるのだ。それが、美になって結実していた。
『アッシジの聖フランチェスコ』日本全幕初演となったこの日は、最後まで聴き届けた観客もオーケストラとメシアンの物語と一体化した。疲労は歓喜になり、カンブルランの薔薇色の笑顔をもう一度見たい聴衆は何度も彼をステージに呼び出した。いつものように可愛いポーズをとってしまうマエストロに「あ、おとうさん…」と思ってしまう。永遠に一緒にいてほしい…と思う気持ちと、あと2年で任期が終わることの寂しさが同時にこみ上げた。東京では26日にも上演される。