新日本フィルと外山雄三先生のすみだトリフォニーでのアフタヌーンコンサートの二日目(10/17)を聴く。雨模様のなか慌てて錦糸町に向かうも、エントランスに入った瞬間に拍手が鳴り、一曲目の外山先生自作の『交響曲』(2019)はロビーで鑑賞することに。ブリテンの「4つの海の間奏曲」を思い出す幽玄な和声が耳に飛び込み、アジア的な響きが特徴的な外山先生のこれまでの作品とは異なる作風に感じられた。曲が進むにつれ「ブリテン風」という印象は消え、畳み込んでいく力強いリズムが後半から勢いを増した。やはりこれは、中で聴かなければならない。10分ほどで、ホールに入ることができた。
大澤壽人(1906-53)の「サクソフォン協奏曲」(1947)は初めて聴く曲。ソリストの上野耕平さんが大活躍だった。作曲家のことはほとんど知らない。ニューヨークとパリで学び、パリではデュカスやN・ブーランジェにも師事した人だという。解説を読まなければ、これも外山先生の曲かと思われるほどメロディの印象が似ていた。オケとの掛け合いも、日本の祭りを思わせるくだりがあったし、管楽器がユーモラスに飛び出してくるところは「喇叭」が鳴っているようだった。上野さんがこの作品を見つけ、強い希望で今回の上演となったという。オーケストレーションは西洋的だが、全体を覆う雰囲気は「日本海」の景色のようだった。作曲家は生きた証を音符を書き記す。40代で亡くなった大澤壽人は「和魂」を遺したかったのだろうか。
前半最後の曲でも、上野さんがソロを担当。トマジ(1901-1971)の『アルト・サクソフォンと管弦楽のためのバラード』(1938)は、地中海的な明るさに満たされたポップな曲だ。はじまりの部分はどこか日本の古い子守歌のよう。郷愁を誘うメロディであり、音色だった。サクソフォンの旋律は無国籍的で、フランス音楽というより、南仏からイタリア、ギリシア、中近東までを旅するようなエキゾティックな味わいが感じられる。途中から回教の僧たちがくるくる踊るダンスのような楽想がはじまり、めまぐるしくユーモラスなサクソフォンのソロと、紺碧の海のような洋々たるオーケストラのコントラストが楽しめた。優美で快活な合奏で、地中海地方のふんだんな陽光と潮の香り、甘い果実酒の芳香が漂ってくるようだった。ところどころラヴェルの「スペイン狂詩曲」も思い出した。トマジの曲は図案化された東洋の海の景色をも髣髴させた。北斎が『富嶽三十六景』の中で描いた「東海道金谷ノ不二」を思い出したのだ。(すみだトリフォニーにかけたわけではないが)
今日のテーマはもしかしたら「海」なのかな、と思った。海=「洋」であり、「西洋」と「東洋」の葛藤というものがクラシックには存在する。前日に聴いた読響&秋山和慶や、その前日に見たKバレエカンパニーの「海賊」が、西洋への劣等感などとうに超克した「日本人のもの」だったことを嬉しく思い出した。ここまでくるのに、日本は相当苦労した。文化や言語を分断し、国家や宗教の対立を作ったのは海なのだ。
おりしも今日は新月の日だった。巨大彗星であった月が地球の引力に巻き込まれ、そのとき大量に発生した水蒸気が海となった…という説がある。それは既に人類が誕生した後のことで、人間の古い記憶には「海がうまれたときの恐怖」が刷り込まれているという(「ノアの箱舟」など)。
プレートが移動する前の陸と陸はすべてひとつだったという説もある。陸続きだった時代、人々は一生かけて徒歩で移動し、命と引き換えに他国にたどり着いた。ヘブライ語と日本語にはいくつもの同じ言葉がある。「人種による優劣はなく、あるのはただ地形などの地理的条件の違い」という説を、透明でドライな文体で書いたジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』という本も思い出した。
後半のベートーヴェン『交響曲第7番』は、海というより岩だった。岩だらけの砂漠で生きる古代の人間を思わせた。外山先生は始終ゆっくりとした動作で振り、身体はほとんど動かさないが、棒の先でどう指示しているのか、嵐のようなスフォルツァンドやアッチェレランドが自動的に(?)巻き起こった。オーケストラは超スローテンポで、意図的に垢ぬけない音を出すのだが、その音が連想させるものは豊かだった。「洗練された響き」がどうしたら出るかなんて、指揮者もオケもよく知っている。この素朴で原始的な合奏は、自然のみを糧に生きている太古の人々を表しているのだ。コントラバスが重労働者に見えた。皆が一生懸命働く。なんにもない更地に、ひとつの家を建築するように交響曲を鳴らすのだ。打楽器の響きが雷のようで、2楽章のアレグレットは「晴耕雨読」の音楽だった。弦楽器はしとしとと降る雨を表現し、雨を見つめながら人間は内省する。
3楽章のプレストは、めまぐるしくやってくる朝と昼と夜の音楽だった。日が暮れて疲れたら人は眠る。また朝が来る。活動し、また眠る。その繰り返しが、最後のほうでは死と再生の音楽になる。老いて亡くなる者もいれば、生まれてくる赤ん坊がいる。チェーン状につながる命の表現だ。そんなふうに聴いているおかしな人は私だけかも知れないが、音楽から感じられるこうした人間の原始的な営みが、ベートーヴェンのこのシンフォニーの本質であるように思えてならなかった。弦楽四重奏を書く時のベートーヴェンは哲学者だが、交響曲では原始人のような人格を見せる。裸になって動物を追いかけ、鳥とたわむれ、夜はただこんこんと眠る。射手座のベートーヴェンには野生児ジークフリートのようなところがあるのだ。
3楽章から4楽章はアタッカではなく、余白をおいて厳かに始まった。差異によるスタイルの主張、といったクラシックのすべてのことが無為に思えるほど、シンプルで強靭な合奏だった。ベートーヴェンは古楽奏法か否かなどということさえも小さすぎる問題に思える。モダン楽器でも時代は超えられる。ピリオド奏法は貧相に聴こえるから味わいがあるが(!)、モダンでも同じ風味は出せる。
太陽のもとではすべてはひとつなのだ。ここでは「日時計にしたがって生きる規律」のような世界観を想像する。世界はもともと、巨大な大陸だったのかも知れない。「西洋」と「東洋」が二元的な世界を作る前の、岩と太陽の時間がこの日のベト7だった。時折、奇異なほどのっそりと奏でられた交響曲は、新型コロナで世界中の国々が孤立を強いられる中で、巨大なワンネスを表現した。人間は皆、家族なのだ。無限の温かさに包まれた、外山先生の宇宙哲学を聴いた。