3/25にオペラシティで行われた上原彩子さんのピアノ・リサイタル。モーツァルトとチャイコフスキーで構成されたプログラムで「キラキラ星変奏曲」から夜空の星屑のような輝かしい音が飛び出し、オペラシティの三角屋根に反響した。無垢であどけない主題…というには、とても危ういものを孕んだメロディが、時間とともに回転しながら壮麗に増幅していく。こんな「キラキラ星」を聴いたことはなかった。悠久の「無」から微かな歪みが生まれ、その歪みから万物が生まれたという宇宙論を思い出した。モーツァルトがただの「可愛い曲」を書くはずがない。ピアニストが譜面から発見したいくつもの和声やリズムが、星空の不思議を連想させた。星空はロマンティックだと多くの人は言う。しかし、厳密に考えてみると星空は現実そのもので、遥か彼方の恒星たちと比較的近くにいる太陽系の惑星たちが、重力も時間も違う世界とともに存在している。目を閉じればキラキラ星たちは消える。宇宙の実体とは実存だ。再び星空はロマンティックなものとして目の前に現れる。
チャイコフスキー「創作主題と変奏」は、モーツァルトと一つらなりの曲に聴こえた。チャイコフスキーはモーツァルトを愛していた。バランシンが振り付けた「モーツァルティアーナ」(組曲第4番)を思い出す。モーツァルトもチャイコフスキーもあまりに美しすぎる。上原さんが奏でる音の美しさが、おかしな言い方だが…人間の可聴領域を超えた果てしないものに思えた。作曲家という役割を超えて、二人とも過激な美意識を書き残し、それは人間としての精神の大きな空隙を埋めるための何かであったようにも感じられた。続くチャイコフスキー「四季」からの3月「ひばりの歌」と6月「舟歌」は、どちらもメランコリックで悲しげな旋律で、他の作曲家が喉から手が出るほど欲しいと思っていたはずの「歌」を呼吸のように自然に湧き立たせたチャイコフスキーの天才に感動した。
モーツァルトの『ピアノ・ソナタ第12番』は、子供心にも懐かしい曲だったが、こんなにも妖艶な演奏は初めてだった。ピアノ・ブームの最中に生まれた昭和の子供たちは、近所の家からこの曲が風に乗って流れてくるのを聴いていたものだが、本質にあるのはもっと怖い世界で、作曲家が知っていた大きな宇宙と死生観がオルゴール箱のような小さくて綺麗なものに封じ込められている。子供っぽさなど微塵もない音楽だった。
リサイタルは演奏家と聴衆の対話の時間だ。この日の上原さんもまた、オペラシティに集った聴衆の声なき声や鼓動を感じ取って、特別な演奏をされたのだと思う。自分自身もまた、いよいよ「特別な聴衆でなければならない」という義務感が消えた。仕事柄、体裁のいいことを書かなければならないとか、そうしたことを普段あまり考えているわけではないが、音楽とともにある一体感や、眠りと覚醒のどちらにいるのかわからないような感覚の方を強く感じたいと思った。
後半のラストに演奏されたチャイコフスキー『グランド・ソナタ』は驚異的なタッチで、一音一音が力強く、運命の鐘の連打のような一楽章からピアニストの強い指に釘付けになった。強いのは指ではなく、精神だ。ドラマティックなフォルテシモの表現は、寂寥感やメランコリズムを振り切るような潔さがあり、上原さんはところどころ腰を浮かせて思い切り鍵盤に体重を乗せて弾いていた。チャイコフスキーの強さ、どん詰まりの逆境を乗り越えていく力を受け取り、それでも53歳で早逝するしかなかった運命を思った。モーツァルトも35歳で死んだ。それから比べればチャイコフスキーは長く生きたが、それぞれの時代精神の中で最も危険な意識を持ち、過激な美意識ゆえに短い生涯を閉じたのだと思う。宇宙の歪みとともに優雅に遊んでみせた天才の足跡を聴き取った。
上原さんはミモザかたんぽぽの花を思わせる黄色いドレスで、最初それを見た瞬間に「あ、太陽だ」と思った。宇宙は容赦なく善悪の彼岸で猛威を振るっているが、地球は太陽の善意に守られている。岩石や地層に刻まれた、生命絶命の痕跡と、そのあとの再生を記した縞模様を思い出し、太陽の癒しの力について考えたのだ。久々に外に出ると昼間の陽光が、遠くから人類の回復を見守っているのが感じられる。上原さんのピアノには、そうした太陽意識が感じられた。三人のお子さんの母である彼女が、日々の心の動きの中から素晴らしい直観を受け取り、巨大な音楽を作り出していることが有難く思われた。こうした感想はまったく評論家的ではないが、モーツァルトもチャイコフスキーも別世界からの手紙のような音楽書き残したのだと実感した。混沌の最中にあってその光はいっそう眩しく感じられたのだ。
Ⓒ武藤章