バイエルン国立歌劇場の6年ぶりの来日公演は『タンホイザー』で幕を開けた。総勢400名以上の歌手、オーケストラ団員、スタッフを伴っての大規模な引っ越し公演で、初日のNHKホールのエントランスにはドイツ国旗の赤・黄色・黒の幕が威風堂々とたなびいていた。前回の来日公演は震災直後の混沌とした時期に行われ、NHKホールでの『ローエングリン』では降板したヨナス・カウフマンの代わりにヨハン・ボータがタイトルロールを歌った。そのボータももはやこの世にはない。
記者会見では、ニコラウス・バッハラー総裁が2011年当時を思い出し「日本の人々が冷静で、音楽に集中しているのを見て、音楽の力の大きさを思った」という言葉を述べた。
ドイツの歌劇場と日本との特別な友情と揺るぎない信頼がベースとなっている、という意味の公演でもあったのだろう。ホールを彩ったドイツ国旗の色が眩しかった。
この来日公演では「初登場」がたくさんあった。最も注目されていたのはバイエルン国立歌劇場の音楽総監督で、次期ベルリンフィルのシェフとなるキリル・ペトレンコで、自らをほとんど語らずインタビューも受けない神秘のヴェールを被ったマエストロの「初来日」であった。記者会見でのペトレンコは始終微笑みを絶やさず、質問にも気前よく答え、至極まっとうな人であったが、同時に「どこにもいないが、どこにでもいる」魔術師のような存在感も放っていた。
『タンホイザー』は序曲からただならないオーケストラの響きで、ロングヘアの美しいアマゾネス風(騎馬族でないワルキューレ?)の美女たちがずらりと並び、その幻影のようなシルエットと音楽がぴったりと寄り添っていた。美女たちが髪の毛をさらりとほどくシーンでは、弦のさざめきが髪の毛のような絹の悲鳴をあらわした。ノセダと同じく、ペトレンコも演出の視覚的な要素に限りなく近づくタイプのオペラ指揮者で、総合芸術としてのオペラの可能性を限界まで引き上げて行こうとするタイプなのだ。
指揮をするペトレンコの左手は催眠術のようで、柔らかくフェミニンな音をオケから引き出し、音は伸縮自在で宇宙のかなたまで引き延ばされたかと思うと、宝石箱に収まるくらいに縮まったり、驚きの瞬間が無数に訪れた。
「そうか…ワーグナーはこんなに美しい音楽だったのか」と呆気にとられた。
クラウス・フローリアン・フォークトもタンホイザーはこのプロダクションが初役となる。
日本では『ローエングリン』歌手として何度も招聘されているが、タンホイザーはどうなるのか注目が集まった。ホルン奏者からスター歌手に転向した珍しいキャリアのテノールだが、少年のようなリリックで透明な声はこの役によくはまっていた。演劇的な先入観さえ覆すステージ・プレゼンスがある。「フォークトは何を歌ってもフォークトだが、同時にローエングリンそのものであり、タンホイザーそのものである」と感じられた。
ヴェーヌス役のメッゾ、エレーナ・パンクラトヴァは巨大な肉襦袢を着て、グロテスクな肉欲の女神を演じていたが、目を瞑って聴くと声は天上的な清冽さに溢れていて、フォークトの少年のような声と溶け合うと、同じ声がからまりあっているような印象を受ける。
ヴェーヌスとは胎内であり、タンホイザーは生まれることを拒む胎児なのではないか…と思った。エロスの化身であるヴィーナスが病的な姿をしていることに対しては、色々な解釈をしてしまう。美醜の判断もつかなくなるほど、タンホイザーは完全な安息の中にいて、それは臨月の母親の胎の中であった…という暗示にも思えた。
フォークトの音程は僅かな不安定さもあったが、フォークトがそこにいることが無防備なタンホイザーの善良さや無辜の魂の表現であった。あの清澄な声を聴いていると、彼を甘やかしたくなり、危なっかしさから守ってあげたくなる。「楽器的な歌手」ともいえるが、あの声質はそれだけでも貴重だ。
驚くべきはペトレンコの音色に対する鋭い感性で、歌手の声にぴたりと合う、これ以上ないほど相応しいサウンドをその都度オケから引き出す。フォークトのあどけない声と木管のシルク毛布のような滑らかな音は見事に溶け合っていたし、ゲルネの哲学者のような深い声には地鳴りのような低弦の渋いアンサンブル…といったように、声とオケが一体化して初めて浮き彫りになる次元を作り出していた。譜面からさらに掘り下げた楽器のキャラクターを発見しているのだ。オケには細かく細かくアドバイスを重ねているのだろう。実際、リハーサルはかなりハードらしいが、オーケストラは皆ペトレンコを信頼し、彼についていっているという。
偶然なのだが、メインキャストのダッシュ、ゲルネ、フォークトのリートのリサイタルをすべて聴いたことがあって、ダッシュはトッパンホール、ゲルネは紀尾井ホール、フォークトは東京文化の小ホールで素晴らしい公演を過去に行っていた。それぞれの歌曲の表現は面白いほど個性が異なっていたが、オペラのステージで一堂に会すると実に面白いコントラストが立ち現れる。ダッシュはドイツリートを歌うときも、どこかイタリアオペラのヒロインのような激しさがあって、信仰心と良心の塊である『タンホイザー』エリーサベトはどこか直情的なトスカにも似ていた(声楽的にではなく、演劇的にという意味で)。
ワーグナーの世界を包み込むような深みと癒しを感じたのは、ヴォルフラムのゲルネだった。リート的な表現であり、同時に演劇的にも的確であるという目からウロコのアプローチで、この役柄においては役(パート)を演じるより、楽譜とリブレットの本質を理解し、ワーグナーの思想に触れることなのかも知れないと思った。「夕星の歌」では声そのものが宇宙の慈愛のようで、不安や無念が癒されていくのを感じた…このときのオーケストラは星空そのもので、音が見えるということの奇跡に改めて震えた。
休憩を二回挟んで5時間弱という公演だったが、これほど呆気なく終わってしまったワーグナーもない。退屈する音がひとつもなく、すべてのシーンが触発的で、歌手とオケの作り出すオペラの次元が途轍もなく刺激的だった。ペトレンコが創造するオーケストラの美は、退屈な美ではなくつねに「驚き」と「革新」をともなった美であり、新しいバランスとアイデアに貫かれているが、荒々しいマッチョさが皆無の平和でなだらかなサウンドでもあった。恐ろしいほど、すべてが俯瞰で見えているのだろう。
歌手の声に対しても、何層もの次元から考察をしていて、それぞれのアリアが物語の時間の流れの中で一番ひらめきに溢れた瞬間になる準備をしている。ヴェーヌスにも多層性を感じた。ヴェーヌスが魔女でも怪物でもなく、男が去っていく悲しみに割れそうになっているか弱い心であるということを感じたのは、これが初めてだった。それはオケが作り出した「演出」でもあったのだ。
映像とダンサーをスタイリッシュに使ったロメオ・カステルッチの演出はミステリアスで、理性的に考えてひとつずつ納得するというより、イメージの集積によって肌に沁み込んでいく質感があり、決して悪趣味でも退屈でもなかった。カステルッチは演劇畑の人だが、日本でも色々な上演を行っているという。ワーグナーの尽きせぬ懊悩…女性への巨大な憧れと罪悪感…と本気で向き合っていたと思う。二体の人形が次々とすり替えられ、最後に「骨」となって朽ちていく描写は、西洋的なメメントモリが感じられた。また、クレジットには記されていないが、東京バレエ団のダンサーが献身的にこのオペラを支えていたのも誇らしい(ヴェーヌスの近くにいた動く脂肪の塊もダンサーたちの貢献である)。
重要な役目を果たした合唱のクオリティも高く、全部で何人いたのか数えきれなかったが、70人は乗っていたのではないだろうか? 舞台を埋め尽くしている「気配」が濃厚で、そこにはオペラに関わる人々の本気が漲っていた。
新鮮な「初めて」の詰まった『タンホイザー』、あるホールの方との会話で気づいたのだが、最も重要なのは、5月に完成したばかりのこのプロダクションを今東京で観られることだろう。
これを上演する、と招聘元が決めたとき、このプロダクションは現実には存在していなかったのだ。どんな(とんでもない前衛的な?)ものが出来上がるか分からないが、相手の才能と誠意を信頼して上演する…そこには月並みならぬ勇気と誇りを感じずにはいられないのだ。
バイロイトで人気急上昇のゲオルク・ツェッペンフェルトの領主ヘルマン、フォークトの息子さんカレ君が演じた黙役の小さな羊飼いも、有難い演技だった。個性的な演出ゆえにミュンヘンでの初演では評価も割れたというこの『タンホイザー』、日本初演は熱狂的な喝采によって迎えられた。無数の勇気と才能がひとつの空間に集中したときの奇跡を経験した稀有の公演だった。
バイエルン国立歌劇場『タンホイザー』は9/25,9/28にもNHKホールで上演される。
記者会見では、ニコラウス・バッハラー総裁が2011年当時を思い出し「日本の人々が冷静で、音楽に集中しているのを見て、音楽の力の大きさを思った」という言葉を述べた。
ドイツの歌劇場と日本との特別な友情と揺るぎない信頼がベースとなっている、という意味の公演でもあったのだろう。ホールを彩ったドイツ国旗の色が眩しかった。
この来日公演では「初登場」がたくさんあった。最も注目されていたのはバイエルン国立歌劇場の音楽総監督で、次期ベルリンフィルのシェフとなるキリル・ペトレンコで、自らをほとんど語らずインタビューも受けない神秘のヴェールを被ったマエストロの「初来日」であった。記者会見でのペトレンコは始終微笑みを絶やさず、質問にも気前よく答え、至極まっとうな人であったが、同時に「どこにもいないが、どこにでもいる」魔術師のような存在感も放っていた。
『タンホイザー』は序曲からただならないオーケストラの響きで、ロングヘアの美しいアマゾネス風(騎馬族でないワルキューレ?)の美女たちがずらりと並び、その幻影のようなシルエットと音楽がぴったりと寄り添っていた。美女たちが髪の毛をさらりとほどくシーンでは、弦のさざめきが髪の毛のような絹の悲鳴をあらわした。ノセダと同じく、ペトレンコも演出の視覚的な要素に限りなく近づくタイプのオペラ指揮者で、総合芸術としてのオペラの可能性を限界まで引き上げて行こうとするタイプなのだ。
指揮をするペトレンコの左手は催眠術のようで、柔らかくフェミニンな音をオケから引き出し、音は伸縮自在で宇宙のかなたまで引き延ばされたかと思うと、宝石箱に収まるくらいに縮まったり、驚きの瞬間が無数に訪れた。
「そうか…ワーグナーはこんなに美しい音楽だったのか」と呆気にとられた。
クラウス・フローリアン・フォークトもタンホイザーはこのプロダクションが初役となる。
日本では『ローエングリン』歌手として何度も招聘されているが、タンホイザーはどうなるのか注目が集まった。ホルン奏者からスター歌手に転向した珍しいキャリアのテノールだが、少年のようなリリックで透明な声はこの役によくはまっていた。演劇的な先入観さえ覆すステージ・プレゼンスがある。「フォークトは何を歌ってもフォークトだが、同時にローエングリンそのものであり、タンホイザーそのものである」と感じられた。
ヴェーヌス役のメッゾ、エレーナ・パンクラトヴァは巨大な肉襦袢を着て、グロテスクな肉欲の女神を演じていたが、目を瞑って聴くと声は天上的な清冽さに溢れていて、フォークトの少年のような声と溶け合うと、同じ声がからまりあっているような印象を受ける。
ヴェーヌスとは胎内であり、タンホイザーは生まれることを拒む胎児なのではないか…と思った。エロスの化身であるヴィーナスが病的な姿をしていることに対しては、色々な解釈をしてしまう。美醜の判断もつかなくなるほど、タンホイザーは完全な安息の中にいて、それは臨月の母親の胎の中であった…という暗示にも思えた。
フォークトの音程は僅かな不安定さもあったが、フォークトがそこにいることが無防備なタンホイザーの善良さや無辜の魂の表現であった。あの清澄な声を聴いていると、彼を甘やかしたくなり、危なっかしさから守ってあげたくなる。「楽器的な歌手」ともいえるが、あの声質はそれだけでも貴重だ。
驚くべきはペトレンコの音色に対する鋭い感性で、歌手の声にぴたりと合う、これ以上ないほど相応しいサウンドをその都度オケから引き出す。フォークトのあどけない声と木管のシルク毛布のような滑らかな音は見事に溶け合っていたし、ゲルネの哲学者のような深い声には地鳴りのような低弦の渋いアンサンブル…といったように、声とオケが一体化して初めて浮き彫りになる次元を作り出していた。譜面からさらに掘り下げた楽器のキャラクターを発見しているのだ。オケには細かく細かくアドバイスを重ねているのだろう。実際、リハーサルはかなりハードらしいが、オーケストラは皆ペトレンコを信頼し、彼についていっているという。
偶然なのだが、メインキャストのダッシュ、ゲルネ、フォークトのリートのリサイタルをすべて聴いたことがあって、ダッシュはトッパンホール、ゲルネは紀尾井ホール、フォークトは東京文化の小ホールで素晴らしい公演を過去に行っていた。それぞれの歌曲の表現は面白いほど個性が異なっていたが、オペラのステージで一堂に会すると実に面白いコントラストが立ち現れる。ダッシュはドイツリートを歌うときも、どこかイタリアオペラのヒロインのような激しさがあって、信仰心と良心の塊である『タンホイザー』エリーサベトはどこか直情的なトスカにも似ていた(声楽的にではなく、演劇的にという意味で)。
ワーグナーの世界を包み込むような深みと癒しを感じたのは、ヴォルフラムのゲルネだった。リート的な表現であり、同時に演劇的にも的確であるという目からウロコのアプローチで、この役柄においては役(パート)を演じるより、楽譜とリブレットの本質を理解し、ワーグナーの思想に触れることなのかも知れないと思った。「夕星の歌」では声そのものが宇宙の慈愛のようで、不安や無念が癒されていくのを感じた…このときのオーケストラは星空そのもので、音が見えるということの奇跡に改めて震えた。
休憩を二回挟んで5時間弱という公演だったが、これほど呆気なく終わってしまったワーグナーもない。退屈する音がひとつもなく、すべてのシーンが触発的で、歌手とオケの作り出すオペラの次元が途轍もなく刺激的だった。ペトレンコが創造するオーケストラの美は、退屈な美ではなくつねに「驚き」と「革新」をともなった美であり、新しいバランスとアイデアに貫かれているが、荒々しいマッチョさが皆無の平和でなだらかなサウンドでもあった。恐ろしいほど、すべてが俯瞰で見えているのだろう。
歌手の声に対しても、何層もの次元から考察をしていて、それぞれのアリアが物語の時間の流れの中で一番ひらめきに溢れた瞬間になる準備をしている。ヴェーヌスにも多層性を感じた。ヴェーヌスが魔女でも怪物でもなく、男が去っていく悲しみに割れそうになっているか弱い心であるということを感じたのは、これが初めてだった。それはオケが作り出した「演出」でもあったのだ。
映像とダンサーをスタイリッシュに使ったロメオ・カステルッチの演出はミステリアスで、理性的に考えてひとつずつ納得するというより、イメージの集積によって肌に沁み込んでいく質感があり、決して悪趣味でも退屈でもなかった。カステルッチは演劇畑の人だが、日本でも色々な上演を行っているという。ワーグナーの尽きせぬ懊悩…女性への巨大な憧れと罪悪感…と本気で向き合っていたと思う。二体の人形が次々とすり替えられ、最後に「骨」となって朽ちていく描写は、西洋的なメメントモリが感じられた。また、クレジットには記されていないが、東京バレエ団のダンサーが献身的にこのオペラを支えていたのも誇らしい(ヴェーヌスの近くにいた動く脂肪の塊もダンサーたちの貢献である)。
重要な役目を果たした合唱のクオリティも高く、全部で何人いたのか数えきれなかったが、70人は乗っていたのではないだろうか? 舞台を埋め尽くしている「気配」が濃厚で、そこにはオペラに関わる人々の本気が漲っていた。
新鮮な「初めて」の詰まった『タンホイザー』、あるホールの方との会話で気づいたのだが、最も重要なのは、5月に完成したばかりのこのプロダクションを今東京で観られることだろう。
これを上演する、と招聘元が決めたとき、このプロダクションは現実には存在していなかったのだ。どんな(とんでもない前衛的な?)ものが出来上がるか分からないが、相手の才能と誠意を信頼して上演する…そこには月並みならぬ勇気と誇りを感じずにはいられないのだ。
バイロイトで人気急上昇のゲオルク・ツェッペンフェルトの領主ヘルマン、フォークトの息子さんカレ君が演じた黙役の小さな羊飼いも、有難い演技だった。個性的な演出ゆえにミュンヘンでの初演では評価も割れたというこの『タンホイザー』、日本初演は熱狂的な喝采によって迎えられた。無数の勇気と才能がひとつの空間に集中したときの奇跡を経験した稀有の公演だった。
バイエルン国立歌劇場『タンホイザー』は9/25,9/28にもNHKホールで上演される。