読響とテミルカーノフの1年半ぶりの共演。10/9のコンサートではハイドン『交響曲第94番 〈驚愕〉』とショスタコーヴィチ『交響曲第13番〈バビ・ヤール〉』が演奏された。男声合唱とバス独唱と共演する大規模な「バビ・ヤール」を読響が演奏するのは31年ぶりだという。コンサート・マスターは日下紗矢子さん。
前半のハイドンから、80歳のテミルカーノフが以前より若々しく、腕を振り上げてオーケストラを鼓舞するさまが生き生きしているのに驚いた。マエストロは読響にぞっこんなのだ。過去の共演でも感じたが、マエストロはこのオケに全面的な信頼を置いている上に、本質的に目指す部分がとても似ている。音楽する目的が共通していると感じさせる。読響とテミルカーノフが組み合うと青い炎のような「人間の誇り」が浮き彫りになり、優雅さやユーモアも溢れ出す。これがサンクトペテルブルク・フィルだと、もっとシリアスで緊張感が強くなる。ペテルブルクのオーケストラと来日するときは、指揮者と楽員は滞在するホテルも別だという。リーダーとして24時間威厳を保たなければならない自分のオーケストラのときとは違った、少しばかりリラックスした気分も生まれるのかも知れない。
ハイドンとの組み合わせにはどのような含意があるのかは推測しかねたが、後半の大曲バビ・ヤールはヘヴィで熱に溢れていた。20世紀のネガティヴィティを凝縮したような曲で、1941年に現ウクライナのバビ・ヤール渓谷でナチス・ドイツによって施行されたユダヤ人の大量虐殺(2日間で33771人)に対する、ロシアの無関心を告発する詩が使用されている。サントリーホールには四つの字幕板が設置され、この重々しい曲を理解するのに大いに役立った。金髪長身のバス歌手ピョートル・ミグノフが、繊細な外見からは意外に思えるほど骨太な表現で、新国立劇場合唱団がロシアのプロの合唱団のような雄大な男声合唱を聴かせた。地声を強調した男声の響きが、濃密な質感でホールを満たした。
ショスタコーヴィチの他の交響曲に通底する不条理や諧謔精神が、先鋭的に伝わる演奏だった。言語というダイレクトな情報をともなうことで、作曲家の最も強い創造の動機が明らかにされた感覚があった。オーケストラは冒頭から不安な不協和音を奏で、分厚い雨雲のような灰色の世界が広がる。ゴングの死の灰じみた不吉な音が終わりのない苦役、誇りを生きられない死んだ時間を連想させる。
凄まじいネガティヴィティを含んだ音楽に、ロシアを2010年に初めて訪れたときのことを思い出した。サンクトペテルブルクとモスクワを取材したが、そのときに、地面や空気の中に重々しい歴史が息づいているのを感じ、人々の心の中にも癒されないものがわだかまっていると感じられた。日本とは明らかに、地面の中に埋まっている「無念」の量が違う。コミュニケーション不可能な世界で、帰国してからも鬱が続いたのを思い出す。
そうした重々しさは、その後2014年、2015年、2018年と三回ロシアを訪れて、次第に希薄なっていくようにも思われた。テミルカーノフはむしろ、地中に埋まっている不条理や不幸を「忘れるな」と言っているようだった。キリストからアンネ・フランクの名前も出てくる第1楽章は殉教者の輪廻転生の物語を思わせ、第2楽章「ユーモア」ではショスタコーヴィチのオペラ『鼻』を連想した。歌詞は膨大で、字幕に目が釘付けだった。新国立劇場合唱団は本当に膨大なロシア語を歌っていた。
ハイドンとの組み合わせにはどのような含意があるのかは推測しかねたが、後半の大曲バビ・ヤールはヘヴィで熱に溢れていた。20世紀のネガティヴィティを凝縮したような曲で、1941年に現ウクライナのバビ・ヤール渓谷でナチス・ドイツによって施行されたユダヤ人の大量虐殺(2日間で33771人)に対する、ロシアの無関心を告発する詩が使用されている。サントリーホールには四つの字幕板が設置され、この重々しい曲を理解するのに大いに役立った。金髪長身のバス歌手ピョートル・ミグノフが、繊細な外見からは意外に思えるほど骨太な表現で、新国立劇場合唱団がロシアのプロの合唱団のような雄大な男声合唱を聴かせた。地声を強調した男声の響きが、濃密な質感でホールを満たした。
ショスタコーヴィチの他の交響曲に通底する不条理や諧謔精神が、先鋭的に伝わる演奏だった。言語というダイレクトな情報をともなうことで、作曲家の最も強い創造の動機が明らかにされた感覚があった。オーケストラは冒頭から不安な不協和音を奏で、分厚い雨雲のような灰色の世界が広がる。ゴングの死の灰じみた不吉な音が終わりのない苦役、誇りを生きられない死んだ時間を連想させる。
凄まじいネガティヴィティを含んだ音楽に、ロシアを2010年に初めて訪れたときのことを思い出した。サンクトペテルブルクとモスクワを取材したが、そのときに、地面や空気の中に重々しい歴史が息づいているのを感じ、人々の心の中にも癒されないものがわだかまっていると感じられた。日本とは明らかに、地面の中に埋まっている「無念」の量が違う。コミュニケーション不可能な世界で、帰国してからも鬱が続いたのを思い出す。
そうした重々しさは、その後2014年、2015年、2018年と三回ロシアを訪れて、次第に希薄なっていくようにも思われた。テミルカーノフはむしろ、地中に埋まっている不条理や不幸を「忘れるな」と言っているようだった。キリストからアンネ・フランクの名前も出てくる第1楽章は殉教者の輪廻転生の物語を思わせ、第2楽章「ユーモア」ではショスタコーヴィチのオペラ『鼻』を連想した。歌詞は膨大で、字幕に目が釘付けだった。新国立劇場合唱団は本当に膨大なロシア語を歌っていた。
テミルカーノフは好きな指揮者だが、彼が巨匠で神だから崇拝しているのではなく、音楽が奇想天外で面白いから好きになった。80歳となり、それほど奇想天外なことはしなくなったが、今でも揺るぎない気品の中にどこかギャンブラー的なところを感じる。スケールが大きく、切り札が斬新で、「死なんか恐しくもなんともない」と言っている人のように見える。人間にとって貴族精神以上に大切なことがあるだろうか? とマエストロの音楽を聴くたびに思う。共感を失い、エゴを暴走させることがいかに恥ずべき事態かを、ひやりとするような潔さで伝えてくる。
20世紀のソ連でショスタコーヴィチが持病の神経痛を患いながら病室で書いた虐殺についての曲を、21世紀の東京で演奏することには大きな意味がある。ネガティヴィティというのは時間の経過とともに癒されるものでも、霧消していくものでもなく、世の始まりから存在し、何かの触媒によって疫病のように蔓延するものなのだ。悲観的歴史主義者にはなりたくないが、全5楽章を聴き終わったときに思ったのは「毒とともに生きなければならない」ということだった。飢えや性的な飢渇を動機とした犯罪以上に、正直さや誇り、理念にもとづく営為は攻撃される。そこで「人間性を信じて進む」ことは、愛と知性にとって大きな使命となる。
読響の献身は素晴らしく、指揮者の心の中に入り込んで求める音を探り出しているようだった。59分間、充実した疲労感とともに名演を堪能した。