雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

さみしがりやと孤独

2011年06月16日 | ポエム

 さみしがりや孤独

私は、兄弟が多く、大勢の家族で育ったせいか、さみしがりやである。
だからと言って、賑やかな場が好きかと言うと、パーティーや繁華街の賑やかさは、苦手である。
人が多くて、わくわくするのは、初詣か祭りのとき位だ。
賑やかな場では、自分の孤独が際立ってしまうように、感じていた。
特に若いときは、回りに馴染めない、孤独な自分を意識していた。
胸を掻きむしり、のたうちまわるような絶望的な孤独な時間を過ごしたこともある。

仕事の関係で、週の半分は、一人の夜を過ごす。
そんな夜、55歳になった未だに、時々すーっと、
胸を掻きむしり、のたうちまわるような絶望的な孤独に陥りそうになる。
夕食を済ませ、風呂も食事の後片付けもしないで、知らないうちにうたた寝をして、
皎々と明るい電燈の下に、深夜に目が覚めたとき。
何気に見た映画のテレビ放映に引き込まれ、「終」のマークを見て現実に戻ったとき。
誰も側にいない。
電話をするのも迷惑な時間。
若い頃ならそこで心のバランスを崩し、
胸を掻きむしり、のたうちまわるような絶望的な孤独に陥ったに違いない。
そこは55歳。
誰かに会いたい、話をしたいと思う前に、
さっさと立ち上がり、皿を洗い、シャワーを浴び、布団を敷いて、
読みかけの本を開く。
人にたよらず、何かでごまかさず、自分の行動で自分の心のバランスを取り戻すしかない。

そう。私には、家族がいて、友人がいて、大勢の理解者もいる。
天涯孤独とかいう、孤独とはほど遠い。
人は笑うだろう。
もともと私の想いは、孤独なのではなく、単にさみしがりやなのだと。(2011.6.16)
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