雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

総武線快速と居眠り

2012年03月06日 | ポエム



 総武線快速と居眠り

 高校を卒業した昭和49年の春。
 僕は、千葉県の市川市に住んでいた姉と同居することになった。
 当時の国鉄市川駅から総武線快速に乗って真新しい東京地下駅で降り、長いエスカレーターを上って、オレンジ色の中央線快速に乗り換え、新宿駅で山の手繊に乗り換えて目白駅まで、通学定期で美大予備校に通っていた。
 中央線の快速に乗り、お茶の水駅で、各駅停車の黄色の電車に乗り換えたりもした。
 市川駅から最初から総武線の各駅停車に乗って、代々木で山手線に乗り換えることも多かった。
 まあ、とにかく鉄道好きだった私は、片道1時間を越し、何度も乗り換える列車通学が楽しかった。
 当時の国鉄総武線快速の確か新小岩と錦糸町の間は、日本一の混雑で知られていた。
 少し前までSLが走っていた様な熊本のローカル線しか知らない僕は、いきなり日本一の通勤地獄を経験することになる。
 僕はいつも絵の道具が入った大きな袋を持っていた。上手く網棚に乗せられないときは、余程気をつけて胸に抱きしめていないと一旦身体から離れた荷物は、人の波に飲まれて遠ざかり、無理矢理身体から遠くへ運ばれてしまうこともあった。
 背の高い男性に囲まれて、酸素不足の金魚のように、顔を上に向けて立っていた(それだけで随分苦痛な姿勢だろう)若い女の子がついに失神し、両脇を男性客に支えられて次の駅のホームに降りるのを何度も見たし、あまりのギューギュー詰めに、電車の窓ガラスが割れることも何度も経験した。覚えているのは、ホームで到着した電車の両開きのドアが開いたとき、外を背に立っていた若い女の子のスカートが、すっかりめくれ上がって、下着が丸見えになっていたこと。気の毒に、何かの拍子にめくれたスカートを手足が自由にならない車内で、どうすることもできなかったのだろう。
 それくらいの乗車密度になると、つり革も不要で、逆に握り棒の側にいると、グイグイ押されて肋骨がいたい位だった。車内の真ん中でつり革無しで、踏ん張らずも安定して立っていることができ、ウトウトすることさえ可能だった。
 乗りものに乗っている最中の居眠りは、揺れが眠気に作用するのか心地よい。特に列車の揺れは、車やバスの揺れに較べて、規則的で眠気を誘われてしまう。
 ある日の帰宅中、総武線快速で東京駅から出入り口の側の窓を背にするロングシートに座ることのできた僕は、気付かないうちに眠り込んでしまっていた。目が覚めたときは、電車は降りるはずの市川駅を過ぎて見慣れぬ町を走っていた。
「しまったあ」と、思ったが、あまりにも気持ちがよい。急いで帰宅する理由も無いし、千葉まで行って、そのまま折り返し運転の電車で市川駅で降りることをぼんやりした頭で決め、再び居眠りの世界へ。
 ところが、なんてことだ。次に目が覚めたときには、電車はすでに東京地下駅まで逆戻りしていた。
 数年前に上京の際に会った同級生のK君が、「都心で飲んで、最終電車で自宅のある福生に帰ろうとして、気がついたら終点の山梨県の大口駅でゾッとした」という話(しかも3回も)を聞いたが、お酒を飲んで酔っていたなら分かる話だ。  
 僕の場合、何がそんなに眠りを誘ったのか、前夜に寝不足だったという記憶もない。とにかく、20分で着くはずの市川駅まで、2時間近く車内で居眠りをしていたことになる。後にも先にも、ここまで深く心地よい居眠りはない。
(2012.3.9)
 
 
コメント
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