菜の花の匂い
歌を聴いていて、その歌が流行っていた頃の過去の自分の一場面が生々しく甦ってきて、あたふたとすることがある。
そのことはよく言われる現象であるが、ある匂いや香りについても同じように、嗅いだ途端にタイムスリップしたかのような体験をすることがある。食いしん坊の私としては、食べ物の匂いでそのような体験があってもよいものだが、意外と食べ物の匂いでは経験が無い。たぶん食べ物には、小さい頃よく食べていて、今は久しく食べていないような料理あるいは食材が無いからかもしれない。
私が香りを嗅いでいつもタイムスリップをしてしまうのは、花の香りである。
中でも菜の花は、香りを嗅いだ途端に、網と虫取りカゴを持ち、裏山を駆け巡った少年の日がまざまざと甦ってくる。
早春の晴れた日の午後のポカポカとした陽気と明るい陽射し。そして薮からはウグイス、空からはヒバリの声が聞こえている。少年の私は虫を捕るための網を右手で持ち、左手には空き箱を利用し、自分で作った虫かごを持っている。
狙う獲物は蝶々。
狙うという表現が大げさなほど、たくさんのモンシロチョウがひらひらと舞い飛び、そして簡単に捕獲できてしまう。
蝶々を捕獲する最適な場所が、菜の花畑である。だから菜の花を匂いを嗅ぐと、私は蝶々捕りをした少年の日の、早春の明るく暖かい陽射しとヒバリの声が聞こえた故郷の裏山の菜の花畑にタイムスリップしてしまうのだ。
次から次に捕まえたモンシロチョウをカゴに入れる。自作の虫カゴの前面には、ビニールが貼ってあり、中の様子が見える。それから小さな虫カゴがいっぱいになり、窮屈に感じる頃には、少年は蝶の捕獲にあきてしまう。
この遊びのクライマックスは、自ら虫カゴをあけ、捕獲した蝶々を解放する時だ。捕獲の楽しみより、解放する楽しさを味わいたくて、面白みの少ない蝶の捕獲したのかもしれない。
鳩の放鳥のようにはいかないが、箱の壁に張り付いた蝶々が一頭、また一頭と次々と空に舞い上がって行く。私は、捕獲した張本人でありながら、解放される蝶々の喜びに同調してうれしくなっている。今考えると、子どもらしい無邪気な、しかし残酷で自分勝手な遊びなんだろうと思う。「禁じられた遊び」という映画に描かれた生き物と子どもの遊びより、殺さずに解放するところは罪が少ないと言えるかもしれないけど。
家の庭にいて、蝶々が飛んでくるのを待つこともあった。
私の家の庭には、家庭菜園や花壇があって、いつも何かしらの花が咲いていた。それで、蝶道になっていたのだ。蝶道というのは、蝶々が花を求めてあちこちの花を回遊するルートのことだ。我が家の庭に飛んで来る蝶々は、そこに見えない道があるかのように、決まって同じ方角から現れ、ひらひらと畑や花壇を舞いながら、東側の4メートルほどの崖をつたうように上昇し、見えなくなった。
モンキチョウという黄色の蝶がいて、モンシロチョウに混じって、我が家の蝶道を通ることがある。たまにしか見かけないし、興奮して追いかけるのだが、モンシロチョウよりすばしこくて、なかなか捕獲することが出来なかった。同じ蝶々でも小型のシジミ類になると、捕まえるどころか見向きもしなかった。逆に、アゲハチョウやクロアゲハなどの大型の蝶になると、その優雅な姿や大きさから、畏れの念を感じて、見るだけで捕獲することはしなかった。
少年の頃、ドキドキしながら見たアメリカのテレビドラマ「タイムトンネル」では、未完成のタイムマシーンが誤作動して、主人公の意思とは関係ない時代や場所に勝手にタイムスリップをしてしまう。
それに較べたら、菜の花は、正確に私を幸福な少年時代に連れて行ってくれる優れたタイムマシーンである。
(2012.3.21)