▲かおるちゃん、クロッカスが咲きました!!
荷馬車と唐津と虹の松原
昭和30年生まれの同世代の中でも貴重な体験かもしれないが、私には荷馬車に揺られて一本道を走っている情景の記憶がある。
荷馬車には山盛りの枯れた松葉が載っていて、私は松葉の上に大勢の人といっしょに乗って、高い視線から馬のたてがみとまっすぐ続いている白い一本道を見下ろしている。何歳の記憶だろう。
積み荷の松葉は、共同風呂の湯を沸かす燃料で、近所の人達と近くの松原で松葉かきの共同作業を行った帰り道である。
場所は佐賀県の唐津。おばあちゃん子だった私は、母方の祖母に連れられて、祖母の出身地の唐津に住む祖母の四女夫婦を訪ね、この叔母の家に長期滞在をした。
唐津には、玄界灘に面する白砂の海岸が続いていて、玄界灘から吹く風を遮る防風林として植えられた広大な松林がある。日本三大松原の一つと言われる虹の松原だ。今なお、それは唐津の美しい光景の重要な要素に変わりはないが、昭和30年代からと較べると、火災や台風、松食い虫などの被害で、大きな松が倒れ、全体にまばらで明るくなった様な気がする。私が幼かったという理由もあるだろうが、以前の虹の松原は、うかつに踏み入ると迷ってしまいそうな、森の威圧感のようなものを感じるくらいのうっそうとした松林だった。
唐津の町中がそうなのかは知らないが、海岸はもちろん、叔母の家の庭や畑や道も石を探すことが難しい程白い砂だらけだった。松原の中も白砂が広がり、松葉かきの作業の副産物として、丸い松露というキノコが見つかった。その時小さな卵形の薄茶色のキノコを見せてもらった気がするが、別の機会の記憶をごっちゃになっているかもしれない。
松葉かきの作業には、私の他にもお手伝いに子どもが数人同行していたが、その中のお兄さんと一緒に未だに忘れられない危険な遊びをした。
虹の松原には、当時国鉄の筑肥線という単線が陸側の端を通っていて、そこを走るディーゼルカーやSLの引く貨物列車を見ることも、幼い私の唐津滞在の楽しみの一つだった。(私の故郷の天草には鉄道が無かった)
その日、松葉かきに同行した数人の子ども達は、線路際に立ち、近づく列車をドキドキしながら待った。
危険な遊びというのは、線路のバラストと言われる石をレールの上に並べて、列車の通過で石が粉々に砕けることを楽しむということだった。幼い私は近所のお兄さんの行いを傍観していただけだが、後でこの遊びは列車が脱線する危険のある大罪であることを知った。
線路の小さな石は、何事も無いかのように粉々に砕けた。
叔母の家の近所にあった共同浴場を子供心にはとても広かった記憶があるが、実際はどうだか。窓があってすぐ側を当時の東唐津駅をスイッチバックして松浦線や唐津線と連絡する線路が走っていて、入浴中に汽笛が聞こえると窓まで行き、列車を見送った。
その共同浴場は、家族単位で利用し、幼い私も祖母や叔父叔母と一緒に利用したと思うが、他の家のおじさん、おばさんも一緒に入っていたような記憶があり、大きくなって不思議に思った。
叔母の家にも数年後には内湯が出来た。その後、筑肥線は、福岡市営地下鉄と繋がり、松原から少し離れた地点に高架線となった。唐津の町中にある唐津駅に川を渡って直行し、大好きだった終着駅のような旧東唐津駅や浴場の横の線路も廃止になってしまった。共同浴場はとうの昔に無くなった。
私にとって唐津は第二の故郷である。また私は、唐津っ子のクォーターであることを自認している。それは唐津出身の祖母の血を引いているだけでなく、幼い頃によく唐津に来ていて、唐津に思い出がたくさんあるという理由もあるのだ。唐津には今でも叔母夫婦が健在であり、縁あって私の妹が唐津に嫁いだ。今でも年に1、2回、唐津を訪れると他の町で感じることの無い心持ちがする。 (2013.2.20)