▲先月末に行った横浜の夜明けの空。都会の空もきれいだった。
寝台特急みずほ熊本行きと熊本弁
現在放送中の朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」を見ていたら、だいぶ前の放送だが、集団就職で上京した東北出身の若い見習い工が、休日に故郷の言葉を聞きたくなって東北方面の列車が発着する上野駅に行くという話があった。
私も高校を卒業して、美術部の仲良し3人組で上京し、芸大油画科を目指し浪人していたときに、故郷に帰りたくて、帰りたくて、ふらふらと九州行きを始め西日本各地に向かって夜行寝台特急が次々に発車する夕方の東京駅のホームにたたずんだことがあったことを思い出した。
テレビ番組の中の見習い工は、何時間も上野駅にいて故郷の言葉を聞けなかったと言っていたが、私の場合は、ホームで必ず乗客の熊本弁を聞く事が出来る列車があった。寝台特急「みずほ」号、熊本行きだ。私自身も千葉県の市川市に住んでいた頃に、熊本に帰る際、上京する際は、ほとんどこの寝台特急「みずほ」号を利用した。帰郷の際に下り列車に乗り込むと、すでに車内のあちらこちらから懐かしい熊本弁が聞こえて来た。
まだ分割民営化など考えられない「国鉄」「国電」の時代だった。
国労などのストライキで、国鉄が一番荒れていた頃で、国電の車体に白いペンキで大きく書かれたアピールの落書きのような文字が、鉄道好きの私には悲しかった。車体の文字の中に「総括」という漢字を見つけ、意味が解らず後で辞書を繰ったことなども思い出す。とにかくストライキが多く、帰省の際に仕方なく初めて航空機を利用したのもこの頃だ。トライスターというエアバスと呼ばれた大型機を使用した熊本便はたいていガラガラで、当時は半額だったスカイメイトが空席待ち不要で常に利用出来た。国鉄がストライキで仕方なく利用した航空機で、飛行機の速さ、便利さ、快適さに目覚めた人は多かったと思う。私もその一人で、その後国鉄の長距離輸送は航空機にシェアを奪われ、夜行寝台特急も衰退の一路をたどる。
国鉄のことを考えると、予備校時代の群馬県人の友人が、その後「絶対つぶれねえ」という理由で、国鉄に就職したことも思い出す。
そんな予備校時代に、同窓の仲良し3人組は、だんだんと都会の生活にも慣れ、言葉も「標準語」をしゃべっているつもりでいた。ところが飲食店などで、「お兄さん方は九州ですか」などと言われ、標準語で話しているつもりの我々3人の会話から九州出身であることがバレバレだった。店を出た後で、誰でばれたのかと犯人探しをしたこともあった。
だからと言って、熊本弁がはずかしいという考えは皆無で、いろんな地方から集まった美大予備校の仲間を前に、余興で熊本弁講座を開いたりもした。開いたドアを閉めることを熊本では「あとぜき」と言うが、あとぜきは標準語だと思っていた。箒で掃く(はく)ことを「はわく」と言って、笑われたりもした。また道具を片付けることを熊本では道具を「なおす」と言うが、「どっか故障したの?」と尋ねられ、方言だと知った。
1浪目の年末。市川の女子大に通っていた姉と1年間だけ同居した年だったが、理由は忘れたが年末年始に私は帰省しなかった。姉の白黒テレビから、帰省ラッシュが始まったというニュースが流れて来た。
そう言えば、仲良し3人組の私以外の二人も今日のみずほで熊本に帰るんだったよね、と思い出し、画面を注意して見ていたら、東京駅のホームで熊本行きの「みずほ」のサボ(行き先や列車名の案内表示)が映った。その上、乗客がみずほに乗り込む場面で登場したのは、なんと荷物を抱えた当の二人、K君とT君だった。
偶然見た全国放送のニュースに登場した二人に、ひとりでいつまでも大笑いした昭和49年の暮れだった。
(2012.9.5)