雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

寝台特急みずほ熊本行きと熊本弁

2012年09月06日 | ポエム

▲先月末に行った横浜の夜明けの空。都会の空もきれいだった。

 寝台特急みずほ熊本行きと熊本弁
 現在放送中の朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」を見ていたら、だいぶ前の放送だが、集団就職で上京した東北出身の若い見習い工が、休日に故郷の言葉を聞きたくなって東北方面の列車が発着する上野駅に行くという話があった。
 私も高校を卒業して、美術部の仲良し3人組で上京し、芸大油画科を目指し浪人していたときに、故郷に帰りたくて、帰りたくて、ふらふらと九州行きを始め西日本各地に向かって夜行寝台特急が次々に発車する夕方の東京駅のホームにたたずんだことがあったことを思い出した。
 テレビ番組の中の見習い工は、何時間も上野駅にいて故郷の言葉を聞けなかったと言っていたが、私の場合は、ホームで必ず乗客の熊本弁を聞く事が出来る列車があった。寝台特急「みずほ」号、熊本行きだ。私自身も千葉県の市川市に住んでいた頃に、熊本に帰る際、上京する際は、ほとんどこの寝台特急「みずほ」号を利用した。帰郷の際に下り列車に乗り込むと、すでに車内のあちらこちらから懐かしい熊本弁が聞こえて来た。
 まだ分割民営化など考えられない「国鉄」「国電」の時代だった。
 国労などのストライキで、国鉄が一番荒れていた頃で、国電の車体に白いペンキで大きく書かれたアピールの落書きのような文字が、鉄道好きの私には悲しかった。車体の文字の中に「総括」という漢字を見つけ、意味が解らず後で辞書を繰ったことなども思い出す。とにかくストライキが多く、帰省の際に仕方なく初めて航空機を利用したのもこの頃だ。トライスターというエアバスと呼ばれた大型機を使用した熊本便はたいていガラガラで、当時は半額だったスカイメイトが空席待ち不要で常に利用出来た。国鉄がストライキで仕方なく利用した航空機で、飛行機の速さ、便利さ、快適さに目覚めた人は多かったと思う。私もその一人で、その後国鉄の長距離輸送は航空機にシェアを奪われ、夜行寝台特急も衰退の一路をたどる。
 国鉄のことを考えると、予備校時代の群馬県人の友人が、その後「絶対つぶれねえ」という理由で、国鉄に就職したことも思い出す。
 そんな予備校時代に、同窓の仲良し3人組は、だんだんと都会の生活にも慣れ、言葉も「標準語」をしゃべっているつもりでいた。ところが飲食店などで、「お兄さん方は九州ですか」などと言われ、標準語で話しているつもりの我々3人の会話から九州出身であることがバレバレだった。店を出た後で、誰でばれたのかと犯人探しをしたこともあった。
 だからと言って、熊本弁がはずかしいという考えは皆無で、いろんな地方から集まった美大予備校の仲間を前に、余興で熊本弁講座を開いたりもした。開いたドアを閉めることを熊本では「あとぜき」と言うが、あとぜきは標準語だと思っていた。箒で掃く(はく)ことを「はわく」と言って、笑われたりもした。また道具を片付けることを熊本では道具を「なおす」と言うが、「どっか故障したの?」と尋ねられ、方言だと知った。



 1浪目の年末。市川の女子大に通っていた姉と1年間だけ同居した年だったが、理由は忘れたが年末年始に私は帰省しなかった。姉の白黒テレビから、帰省ラッシュが始まったというニュースが流れて来た。
 そう言えば、仲良し3人組の私以外の二人も今日のみずほで熊本に帰るんだったよね、と思い出し、画面を注意して見ていたら、東京駅のホームで熊本行きの「みずほ」のサボ(行き先や列車名の案内表示)が映った。その上、乗客がみずほに乗り込む場面で登場したのは、なんと荷物を抱えた当の二人、K君とT君だった。
 偶然見た全国放送のニュースに登場した二人に、ひとりでいつまでも大笑いした昭和49年の暮れだった。
(2012.9.5)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私的日本列島最北到達記録更新?の地でハムを食べ、飲み明かす?

2012年09月03日 | ポエム
▲ノイ・フランク アトリエ那須で開かれていた息子さんの仲間のグループ展の作品の上に赤とんぼが似合っていた。

 私的日本列島最北到達記録更新?の地でハムを食べ、飲み明かす?

 私の日本列島最北到達記録を更新した。と、書くと、ほとんどの方が本州側の最北の県青森の記録から北海道上陸をやっと果たしたとか、または北海道には行った事があるが、札幌辺りまでだったのをついに最北の地、宗谷岬(北方領土の択捉島が本来の最北端らしい)まで足を伸ばしたのかと想像されるでしょうが、情けないことに我が人生、山陰から北陸、上越、東北、北海道とまだ踏んでもいない地方ばかりである。
 今回は、栃木県にいる親友を訪ね、最北記録であった同じ栃木県の宇都宮市から那須塩原市までわずか50キロほど北上を果たした。一人、心の中で記録更新だと祝っただけのことである。
 で、ここまで書いて頭の中の地図をナビすると、中学1年生の夏休みに東京の叔父(父の長兄)を訪ねた際に、一緒に軽井沢への避暑に連れて行ってもらい、その途上で草津温泉や白根山を訪ねたが今回の那須塩原とどちらの緯度が高いかしらん、と不安になった。と、またここまで書いてもう一つ思い出したのは、芸大受験の予備校時代に、スケッチ旅行で長野県の鹿島槍のふもとの芸大の山荘に行ったが、その3カ所の緯度の比較はどうかしらん。
で、ちょっと調べたら私の感覚は当たっていて、ほとんど横並び。同じ緯度だった。
 ちなみに最東記録は、千葉市。最西記録は長崎県の平戸。最南端は沖縄市で間違いない。頭の中の緯度経度で話を始めたが、また不安になって調べたら、平戸より沖縄市が西にあるようだ。いずれにしても平戸(九州本土で)や沖縄は最東・最南を認識していると思うが、千葉や那須塩原は個人的に最北・最東と騒がれてもいい迷惑なだけだ、とも思う。
 人生2度目の東北新幹線に乗り、やまびこ号が宇都宮を出ると、広い田園風景が広がり、背の高い大きな樹木がこんもりと茂る屋敷林が特徴的な風景となる。
 ジブリのアニメ、となりのトトロの舞台みたいだと感じる。
 皇室が静養に訪れたというニュースで見たことのある那須塩原駅には、友人が車で迎えに来てくれていた。3年前に新宿駅のガードの側の横町の焼き鳥屋で終電まで飲んで以来の再会だ。その間に友人の方は、東京から那須塩原に移住し、森の中で手作りハムソーセージの製造販売と小さなレストランを始めた。東京芸大油画科を卒業した造形作家でもあり、「半商半芸」とでも言うのだろうか。来月には市内の「ギャラリーバーン」という倉庫のような素敵なスペース(今回ちょっと寄りました)で開催される地元の作家協会の作品展に彼も出展もするようだ。


▲友人の旧作も庭に常設されていた。

 彼の作るハム類は、素材本来の味を引き立たせるために、ぎりぎりまで薄味になっている。私も家人もそこが気に入り、自家用で食べるが贈答にも使って喜ばれている。那須塩原に行けそうな人は、ぜひお訪ねください。行けない人は、通信販売も出来るので、ネットで調べるよーに。お店の名前は「ノイ・フランク アトリエ那須」と言います。東京の国立市で彼の姉夫婦が「ノイ・フランク」という有名なお店を長くやっていて、彼も作家活動をしながら贈答シーズンにはハム作りのお手伝いを続けていました。那須の店は言わば「のれんわけ」です。ですから彼の職人としてのキャリアは長いのです。
 私も彼の作ったハムを食べ続けて20数年。一度ハム、ベーコン、ソーセージ作りの講習を彼から受けたことがあり、以来ときどき冬にハムやベーコンなど薫製作りを楽しんでいます。


▲お店の外観。クヌギや赤松の森の中の静かな別荘地の一角にあります。

 本来、数年早く移住、開業予定でしたが、リーマンショックで都内の持ち家の評価が下がり延期。やっと開業して軌道に乗ったかに見えた矢先、3・11。福島原発の風評被害で客足が途絶えました。彼に那須を案内してもらいながら、原発事故以来、経営が成り立たず閉店したという店をあちこちで見ました。原発の恐ろしさを別の意味で痛感しました。
 夕食は、彼の作ったハムソーセージを食べながら、ドイツビールで乾杯。その後ワインを奥さんと3人で2本開け、子ども達が小さい頃のホームビデオを見ながら私のお土産の球磨焼酎を。若い頃は、三日三晩連続で飲み続けたことをあったねと、二人とも「久しぶりに今夜は飲み明かすぞ」という意気込みでしたが、気がついたら早々と二人とも睡魔に撃沈していた夜でした。
 ちなみに私の過去のブログの中のエッセイや詩に登場するイニシャルのK君とは、彼のことです。
(2012.8.31)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする