《2017年3月31日》
マスコミはアッキード疑獄や共謀罪法案などの重大な政治的局面の報道で賑わっている。また、高浜原発3,4号機の再稼働を大阪高裁が容認したこと(大津地裁判決を覆したこと)や広島地裁が伊方原発3号機の運転差し止めの訴えを却下したことなど脱原発運動にとって重要なニュースもあった。もちろん、全国で無数に起こされている(起こされようとしている)裁判のうちの2例にすぎないので、さほど落胆するには当たらないし、むしろ独立性を失った司法で福井地裁判決や大津地裁判決があったという価値の方が決定的だと言っていい。ある司法判断を徹底的に批判する司法判断を司法自体がその内部に抱え込んでいるというのは将来を見通すうえでとても重要だろう。
さて、そうした大ニュースの陰でひっそりと流されたニュースがあった。1週間ほど前、原子力規制委員会はこの29日に4原発5基の廃止措置計画(廃炉の工程計画)を許可する方針だというニュースがあった。30日になったら、廃止措置計画の資料の一部に分かりにくい記述があったため、認可を見送ったというニュースになった。
ニュース価値としていえば、4原発5基の廃炉はすでに決まっていて、規制委員会は単に事務的手続き的な仕事をしているのであって、許可するとかしないとかはたいした問題ではない。私が気になったのは、「この5基の原発は運転開始から40年たったので廃炉が決まっていた」という意味の文が何の注釈もなしに記述されていることだった。間違いはないのだが、しかし、規制委員会は40年で廃炉という原則を破って別の3基は40年を越えて運転することをすでに認めているのである。つまり、40年は何のクライテリオンにもなっていないので、上の文章はあえて書く意味がないのである。
廃止措置計画が審査されている4原発5基というのは、日本原電敦賀原発1号機(35.7万kW)、関西電力美浜原発1、2号機(各42万kW)、中国電力島根原発1号機(46万kW)▽九州電力玄海原発1号機(56万kW)で、それ以外ですでに廃炉が決定している原発には、浜岡原発1、2号機(各69万kW)、日本原電東海原発(16.6万kW)がある。
一方、40年を越えて運転することを規制委員会が認めた原発は、美浜原発3号機(82.6万kW)、高浜原発1,2号機(各82.6万kW)である。
これを見れば、廃炉か延長容認かを決定しているのは、明らかにその原発の発電量である。運転延長には数千億円規模の安全対策費用がかかるとされていて、70万kW以下では採算が取れず、80万kW以上では採算が取れるという判断である。ここには、40年経った老朽原発は危険だから廃炉にしようという安全性の観点を規制委員会はとっくに捨てているのである。安全性ではなく経済性がクライテリオンになっているのだ。
おそらくこうした判断に関わった役人(規制委員会委員も実質的には上に逆らえない役人にすぎない)は、「社会的、経済的に合理的な判断」だとか「合理的に達成しうる目標」などという屁理屈で自己弁明しているに違いない。ここで言う「合理的」というのは「霞が関文学」ではきわめて恣意的、主観的な意味合いしかもたない。
こうしたことから思い出されるのは、放射線被ばくの線量限度を定めるときに適用される「ALARA原則」である。国際放射線防護委員会(International Commission on Radiological Protection, ICRP)は「すべての被ばくは、経済的および社会的な要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保たれなければならない」と勧告している。この最後の部分「As Low As Reasonably Achievable」の頭文字をとって「ALARA原則」と呼ばれている。
ICRPは、「ALARA原則」を前提にして東電1F事故による汚染地域における被ばく限度を1~20mSv/年とするよう勧告したが、日本政府はよりによって最大値の20mSv/年を採用したのである。1mSv/年とするのは「経済的および社会的要因」を考えると不合理で、合理的に達成できる数値ではないと考えたということだ。
20mSv/年ではなく1mSv/年とすることで生じる問題は避難区域が広がって避難者が増大することだけである。つまり、避難者への経済的保証が増えるだけである。経済的にさほど裕福ではないベラルーシなどでは実現させているので、経済大国と自慢する日本では楽に実現できることである。しかも、1mSv/年とすることで将来間違いなく拡大する被爆者の晩発性障害にかかる医療費を大幅に抑える効果もある。どちらが経済的かはわからないのである。しかし、政治家と官僚は福島の被爆被害者に支払う目先の金が惜しいのである。
彼らが考える経済的、社会的「合理性」というのはその程度のものにすぎない。議論を戦わせる価値もない。ただ一言「いやだね」と断言して反対することが唯一の正しい国民的態度だとしか思えないのである。