かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(35)

2024年12月17日 | 脱原発

2016年6月3日

 東日本大震災と福島原発のメルトダウン事故は2011年に起きたが、その年は「アラブの春」と呼ばれた民主化運動が起きたことでも重要な年だった。それから3年、「アラブの春」を取材し続けた中日新聞社の田原牧さんが、再びアラブ世界を訪れ、次のように書いている。

 二〇一一年、そのアラブで騒乱が起きた。いくつかの独裁政権が倒された。同じころ、日本では東日本大震災が発生し、それに伴う福島原発事故を目の当たりにした人びとはデモに繰り出した。それから三年以上が経ち、アラブでも日本でも熱狂の舞台はすっかり暗転し、反動の嵐が吹きすさんでいる。 [1]

 エジプトの民主主義を求めた革命は成功したかに見えたが、ムスリム同胞団は革命の成果を盗んで政権に就いた。しかし、革命時に約束したリベラルな公約をことごとく反故にして強硬なイスラム化政策をとったため、リベラルな市民たちの支持を失った同胞団政府は、アッという間に軍事政権に覆されてしまった。革命は二重に盗まれてしまった。
 日本の脱原発運動もまた、事故後の脱原発への全体的な機運を民主党野田政権が再稼働を容認することで挫き、続く安倍自公政権は再び積極的な原子力推進の舵を切り戻す事態の中で進められてきた。
 国会前の10万人を越える反原発の運動は、5年後の今はたしかにその参加人数を大きく減らしてはいるが、国民の過半を越える脱原発への意思を背景に粘り強く続けられている。今や、国会前は反原発と反戦争法制の二元的共闘の場に化しつつある。
 そういう点において、「アラブの春」と福島事故のその後の経過は必ずしも同じではないが、三年後のアラブ世界を旅した田原さんの次のような言葉は、この日本で反原発と反戦争法制の意思表示を続けている私(たち)にとって、とても強く響いてくる。

 革命の理念が成就すること、あるいは自由を保障するシステムが確立されるに越したことはない。それに挑むことも尊い。しかし、完璧なシステムはいまだなく、おそらくこれからもないだろう。そうした諦観が私にはある。実際、革命権力は必ず腐敗してきた。
 革命が理想郷を保証できないのであれば、人びとにとって最も大切なものは権力の獲得やシステムづくりよりも、ある体制がいつどのように堕落しようと、その事態に警鐘を鳴らし、いつでもそれを覆せるという自負を持続することではないのか。個々人がそうした精神を備えていることこそ、社会の生命線になるのではないか。
 革命観を変えるべきだ、と旅の最中に思い至った。不条理をまかり通らせない社会の底力。それを保つには、不服従を貫ける自立した人間があらゆるところに潜んでいなければならない。権力の移行としての革命よりも、民衆の間で醸成される永久の不服従という精神の蓄積こそが最も価値のあるものと感じていた。 [2]

 そうなのだ。民主主義というのは、安倍晋三や橋下徹が単純に考えるような多数決で決めるなどという制度のことを指すのではない。民主主義とは、腐敗し、堕落する権力への不服従を不断に維持しつつ、民主主義的な未来へ永続的に主張し行動し続けることまで包含する永続的な革命全体のことを指すのだ。
 権力に不服従な個人、これが民主主義にとって必須な要素だ。反語的に言えば、権力に不服従な個人に居場所が認められた世界こそ民主主義的な世界だともいえる。そして、今ここにある個人として私の精神、私のありようこそが問われているのである。私は、「不服従という精神」を蓄積しつつ、デモに向かわなければならない。
 田原さんの言葉で深く考えさせられたが、それは辺見庸さんの言葉が私の心の奥底でずっと響いていたためでもあった。

 きょうお集まりのたくさんの皆さん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。 [3]

 多くの人々と一緒にデモを歩きながら、「ひとり」として意思表示しているという実感は、私にはとても重要だ。官邸前の抗議行動に加わると、とくにそのような実感を強くする。あの無数の人々が手作りのプラカードを掲げ、声をあげている様子は、あきらかに「ひとり」、そして「ひとり」、また「ひとり」と集まった人々なのだ。
 やはり、市民の抗議行動、不服従の行動は、国会前での原発再稼働への抗議行動から大きく変わったと思う。ことさら「団結」や「連帯」を叫ばずに大勢の人が集まってくるのだ。五野井郁夫さんが言うように、それは「非暴力」の抗議行動であるとともに「祝祭」 [4] でもあるのだ。

[1] 田原牧『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が残したもの』(集英社、2014年)p. 8。
[2] 同上、p.237。
[3] 辺見庸『いま語りえぬことのために――死刑と新しいファシズム』(毎日新聞社、2013年)p. 120。
[4] 五野井郁夫『「デモ」とは何か』(NHK出版、2012年)p. 8。

 

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